めんどり聖書研究会/めんどり通信


  めんどり通信 / 2007年11月4日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!



★新約聖書   ヨハネによる福音書  15:5
       わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の
       中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたが
       たは何もすることができないからです。

●神の計画には「偶然」ということはなく、人の目に偶然と見えることも、実は神のご計画の中
にあったことであり、一つ一つの出来事は神が制御しておられる。 神は無から有を創造され、
すべては神の目的に向かって動かされ、神によってすべ治められる。 神のご計画がある。 
その神の摂理があるからこそ、我々が何か不幸な出来事や悲しい事柄に直面したとしても、
「神のなさる事はすべて時にかなって美しい(伝道3:11)」と、前向きに生きることができる。 
また主を信じ従う者は、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のた
めには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ
 8:28 )」
と絶えず神に信頼できる。 だから真のクリスチャンは人生に絶望するということがな
い。 

「神の裁きからの救い」というだけでなく、その(上記の)ような救いも与えてくださる恵みの神で
あるが、我々がその神の恵みの中にとどまり続けるということが重要であることをイエスは語っ
ておられる。 キリスト教会の中には、一旦、主を信じて救われたなら、どのようなクリスチャン
でも決して地獄へ行くことなどない、裁かれることなどない、などと語ってきた。 しかし、聖書は
そのようには語っていない。 

★新約聖書   マタイによる福音書  7:21
   わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におら
   れるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

★新約聖書   ヨハネによる福音書  15:6
        だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。
       人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

●主イエスは、「『主よ、主よ。』と言う者」、すなわちクリスチャンがみな天の御国に入るのでは
ない、とはっきり言われた。 また「『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなた
の名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。
(マタイ 7:22) 』
と言えるほど、すばらしい奉仕をしたクリスチャンだからといって、天の御国に
入れるというのでもない、と言われた。 むしろ、主は、そのような人に「『わたしはあなたがたを
全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(マタイ 7:23)」
と驚くような言葉を
言われた。 

人が一旦、罪を悔い改めて、主イエス・キリストを信じ、クリスチャンになって信仰生活のスター
トをして、日曜礼拝は出席している、教会の奉仕はしている、献金は捧げている、教会の集会
に参加している、聖書を持っている、人を救いに導いた、・・・として、これらのことは確かによい
ことであり、クリスチャンとして神に喜ばれることである。 しかしだからと言って、主の御言葉
からするなら天の御国へ必ず入れるとの確約ではないように思える。 

もちろん、聖書に「御子を信じる者はさばかれない。(ヨハネ福  3:18 )」と書かれていることも
事実であるが、聖書はその箇所だけでなく、他のテキストも照らし合わせて考えてみる必要が
ある。「すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない(Uペテロ 1:20 )」 
そうすると、やはり、天の御国へ入るには、「キリストに絶えずつながり、キリストにとどまってい
る」ということが必須である。

福音を聞かずして亡くなった人や福音を聞いても理解も判断も決断もできない子どもや、この
世に生まれ出ることのできなかった子どものことは、神におゆだねするのが一番いいのではな
いだろうか。  「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからであ
る。(出エジプト 20:6 )」「キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主とな
るために、死んで、また生きられたのです。(ローマ 14:9)」
と神は言われる。 救いについて、
人にはまだまだ知らされていない神の領域というものがあるのかもしれないし、そうでないかも
しれない。 しかし、だからと言って、現代、我々に与えられている神のことば、聖書のいうこと
ばからはずれて、死後にはセカンドチャンスがあるから大丈夫とか、神は愛だから人を裁かな
いとかを言い出すのは自分勝手、人間勝手というものである。 それらは人間の願望にすぎ
ない。 むしろ福音を曲げてしまうおそれがある。

もし、身近な人のことが気になるのであれば、今、生きて主イエス・キリストを信じているクリス
チャンは、その人たちのために、救われるよう祈るべきであり、また機会が与えられれば、神と
和解するように話すべきであろう。 身近な人のことも気にしないで、ただ一般論で、ああだ、こ
うだ、と言う人は、まず自分がどうなのかということを考えてみるべきではないだろうか。 キリ
ストも「他の人のことはいい。あなたはどうするのか。私を信じるのか信じないのか。」とひとりひ
とりに問いかけておられる。 (ヨハネ福  21:22 )

神は、私たちが一度罪を悔い改めただけでなく、私たちが悔い改め続けることを求めている。 
人は主イエス・キリストを信じたから罪を犯さなくなるというのではない。 クリスチャンでも罪を
犯してしまうことがある。 だから悔い改め続けることが必要なのである。 つまり救いの中に
とどまり続ける、キリストの中にとどまり続けることが重要である。 

人生に絶望することのない救い、そして何よりも、地獄に落とされるはずの者が天国に入れて
いただけるという「神の裁きからの救い」は、信じ続ける者、そしてキリストに留まり続ける者が
得られるものである。 そして、そういう人は神の御言葉に祈りつつ従っていくであろう。 そうい
う人が本当の意味で救われている、と言える。 キリスト教のいう救いとはこのことである。 
日々、主に頼り、祈り求めてキリストの愛の中に留まっておきたいものである。

★新約聖書   ヨハネによる福音書  15:9
       父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどま
      りなさい。



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