めんどり聖書研究会/めんどり通信


  めんどり通信 / 2007年10月21日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!



★新約聖書    ルカ による福音書 24:46 ,47
    キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦し
        を得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。

★新約聖書  第一テモテの手紙   2:4
   神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。

●聖書は、神は唯一であることを断言しているが、(Tテモテ2:5、イザヤ書44:6、45:22)、そ
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられ」る。 

「救い」というとき、それは災難や苦しみからの救い、死の恐怖からの救い、平安な生活を得る
ことなど、「救い」ということに含んでいるというだけで、主役ではない。 真の「救い」を得てい
なくとも、それらを得ることができる人も多い。 真の「救い」とは罪からの救いである。

人はどうして救われる必要があるのか。 それは「罪から来る報酬は、死である.。(ローマ6:2
3)」
と聖書にあるように、罪人である人間の結末は、「永遠の死(地獄)」であると警告している。 
だから人間は、罪から救われなければならないし救われてほしいというのが神の望みである。

神の人に対する見方は、「だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいな
い。(詩篇 14:3 )」
「すべての人は、罪を犯した(ローマ 3:23 )」である。 だから、人は「神か
らの栄誉を受けることができ(ローマ 3:23 )」
なくなってしまったということである。 

 ★新約聖書 ヘブル人への手紙   9:27
        そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている

●人はこの世に生を受けて、誕生した瞬間から、一刻一刻と死に向かっているとも言える。 
人は途中の人生計画を立てることはする。 たとえば入学、進学、就職、結婚、出産、老後の
生活などのためには備えをする。 しかし、すべての人に必ず訪れる死のための備えをする人
は少ないのではないだろうか。 

多くの人が死と直面したとき恐れを感じるという。 実際、死に直面していなくとも死に対する恐
れは大なり小なり誰の心にもあるのではないだろうか。 それは、死んだら何もわからなくな
る、全てが終わるというのではなく、死後何かがあるということを暗示していないだろうか。 
それでも死のための備えを考える人は少ないのではないかと思われる。

★「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさば
  かれる日に、行なわれるのです(ローマ 2:16)」
★「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その
  肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。(Uコリント 5:10 )」
★ ・・・・私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。 (ローマ 14:10)
★また私は、祭壇がこう言うのを聞いた。「しかり。主よ。万物の支配者である神よ。あなたのさ
  ばきは真実な、正しいさばきです。(黙示録 16:7 )」

●「一度死ぬことと死後にさばきを受ける」この言葉を厳粛に受け止めておきたいものである。 
聖書は、神を受け入れていない者を「死んだ者」と書かれている。 罪が神と人を引き離した。 
何が罪であるかを知るにおいて聖書が与えられている。 旧約時代、異邦人(ユダヤ人以外の
外国人)には、律法が与えられなかったが、良心が与えられたので、それによって罪が分かっ
たのではないかと思われる。 今日、聖書を読んだことのない人もいる。 しかし、神が与えて
くださった「良心」という賜物で罪を知ることはできると思われる。(ローマ人への手紙2:14,15、
使徒 24:16、 1テモテ 1:18) 
 罪は人の修行や努力、善行で解決できるものではない。 この
罪の問題を解決できるのは、唯一の神だけである。 

★新約聖書  第一ペテロ の手紙 3:18
   キリストも一度(人類の)罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなっ
   たのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみ
   もとに導くためでした。

レビ記 17:11には「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがた
のいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは
血である。」
と記されている。 神は、罪を犯し、霊的には死んだ者となり、肉体的にも死ぬべ
き者となり、死後には永遠の裁き(火の池)を受けるべき者となってしまった哀れな人類を顧み
て下さって、罪から救われる救いの道を備えてくださった。 

神のひとり子イエス・キリストをこの世に遣わし、罪の全くない御方を我々人の身代わりとして十
字架につけて罰してくださった。 十字架上で死なれたイエス・キリストは墓に葬られて三日目
によみがえられ、今も生きておられる。 そして、このイエス・キリストを信じる者を救ってくださ
り、永遠のいのちを与えてくださるという神の約束を与えてくださった。 

イエス・キリストを救い主として信じるだけで救われる。 罪の力(サタンの束縛)から、罪の責
めから、自分にしみついた罪の汚れから、罪の結果である神の怒り、地獄、永遠の刑罰から、
救われるのである。 人の力量、才能、人種、名誉、知恵など必要ないのである。 パウロは
「宣教のことばの愚かさ(1コリント 1:21)」
と言ったが、本当にその通りであろう。 

聖書によるならば、神は愛の神であられると同時に義の神でもあられる。 また神は契約の神
であられる。 人が神を認めないのなら、神もまた人を認められない。 契約は相互的関係で
ある。 だから言い換えれば神は強要はされない。 人が神がすでに差し伸べてくださってい
る救いの御手を握るかどうかは、その人に任されている。 

しかし、神はひとり子を人の救いのために十字架にかけることを良しとされたほどに、人に対し
て慈しみ深くあわれみ深い方である。 神の恵みを無にはしたくないものである。 主イエス・キ
リストを信じ続けていき、従い続けていくこと、これが死のための備えの一つである。 日々主
を信じて祈り、神の愛を受け続けていきたいものである。

★新約聖書  第一ヨハネの手紙  4:10
     わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪の
        ためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。



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