めんどり聖書研究会/めんどり通信


  めんどり通信 / 2007年9月9日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!



★旧約聖書   民数記 35:11
       あなたがたは町々を定めなさい。それをあなたがたのために、のがれの町とし、あやまっ
      て人を打ち殺した殺人者がそこにのがれることができるようにしなければならない。

★旧約聖書  民数記 35:28
      その者は、大祭司が死ぬまでは、そののがれの町に住んでいなければならないからであ
      る。大祭司の死後には、その殺人者は、自分の所有地に帰ることができる。

民数記35章は「のがれの町」について書かれている。 「のがれの町」というのを定め、あや
まって人を打ち殺した殺人者がそこへ逃れることができるようにしなければならないと記されて
いる。 「のがれの町」は、復讐(ふくしゅう)する者から、のがれる所で殺人者が、死ぬことが
ないためとある。

あやまって人を殺す、というとき、最大の出来事は、イエスを十字架にかけたことである。 復
讐(ふくしゅう)をする者は神ご自身である。 キリスト殺しについては、クリスチャンだけの問題
ではなく、知らなかったとはいえ、まだ生まれていなかった時のこととはいえ、全ての人がある
意味、加担していることを聖書は語っている。  “我々は皆、裁きの前にある。神の怒りの下
にある。(ヨハネ福  3:36、ローマ 14:10 )
”と聖書に書かれている。  

しかし、「のがれの町」にとどまるなら殺されることはない。 「のがれの町」は今日、救いに関す
る町、教会のことである。 逃れの町=主イエス・キリスト=真のキリストのからだなる教会であ
る。 つまり教会にとどまるなら、裁きにあって滅びる、地獄へ行くことがないということである。
裁きにあわないためには、教会にとどまるというのは聖書の原則である。 

多くの人が様々な理由で、教会を出、クリスチャンになることをやめるが、それは単なる好き嫌
いの問題ではなく、血の復讐(ふくしゅう)をする者(神ご自身)のさばきにあうかあわないかとい
うことに関係する。 

著者もかつて某教会を追い出されたが、礼拝を続けることをやめていない。 某教会を追い出
されて、牧師も兄弟姉妹と呼ばれるクリスチャンも信じることができないほど人間不信、牧師不
信、クリスチャン不信に陥り、心の傷は深かったが、そのとき唯一、思ったことは、”主イエス・
キリストと聖書だけは間違っていない!”ということであった。 その後、知り合いの人々や不思
議な方法で神が引きあわせてくださった方々と共にクリスチャン生活を送っている。

さて、一方、民数記のこの箇所で「逃れの町」から出てもいい時があることが同時に語られてい
る。 民数記35:25〜28節に、大祭司が死んだなら「のがれの町」を出ても血の罪に対する復
讐を受けないと記されている。 真の大祭司とは、キリストのことであると新約聖書のヘブル
9:11節
に書かれている。 また旧約聖書のダニエル書9:26節の70週の預言では、油注がれた
者が断たれることが書かれている。 キリスト教会の中では、この油そそがれた者とは、キリス
トをさすと理解されている。

キリストは旧約時代の最後に来られたが、十字架につけられたとき、逃れの町であったユダヤ
教の会堂からイエスを信じる弟子たちは追い出された。 しかし、大祭司キリストが死なれた時
なので、神は良しとされた。 

同じことが終末にも再現されると思われる。 終末においては”大祭司が死ぬ”ということは、”
聖霊が働けなくなる”ということと思われる。 キリスト教会の中で聖霊が働けなくなることが起
きるという、それが終末である、とも言える。 そのときには、新約の「のがれの町」なる教会を
出てもいいということである。 いや、むしろこの時には、教会が変質してしまうので、出エジプ
ト、つまり聖霊の働けない教会は出るべきであることを聖書のあちらこちらに書かれている。

実際、キリスト教会の長い歴史の中でも特に1980年あたりから、教会に悪霊の浸透が目立っ
てきたように思われる。 2千年に入ってからは、その勢いにはすさまじいものがある。 「角笛」
「エレミヤの部屋」のHPでは、その警告がなされているので見てみるとよい。

著者がかつて所属していたその教会が今はどうなっているかわからないが、当時は、牧師がベ
ニーヒンやピーターワグナーやビルハモン、アナコンディアなど悪霊の器が率いるリバイバル
を推奨し、著者も彼らの集会に出かけたことがある。 愚かにも牧師が言われることはすべ
て、主イエスが言われたことであると思い込んでいたし、そう教えられていた。 当然、聖書に
照らし合わせて吟味したり、主に祈って尋ねて吟味するということなどしなかった。 

様々なことがあって、教会を追い出されたが、人間に頼らず、主イエス・キリストに祈り続け、求
めていくうちに、真理を教えられた。 また 「角笛」「エレミヤの部屋」のHPから更に詳しく教え
られた。 すばらしいリバイバルの器だと教えられていたベニーヒンなどは実は、悪霊を流す器
であること、クリスチャンは大艱難時代の前に挙げられて、地上再臨でまた主とともに降りてき
て、千年王国がこの地上で始まるなどという偽り、イスラエルに第三神殿が建つとかのガセネ
タ、等などを。 そして、そういう波にのまれていくと永遠の命を失うことになると教えられた。 
だから、そのような教会から追い出されたが、神は良しとしてくださった。 

確かに、信仰の面やら何やらで学ばせていただいたことも多く感謝すべきことは感謝するが、
それでも牧師のことばを鵜呑みにして、この教会が一番、この教会を離れたら地獄に落ちる、
などと恐怖を覚えるという一種のマインドコントロールにかかっていたとも思われる。 それも解
いていただいて、今では、キリストが第一として心にも霊にも家庭にも本当の神の平安が与え
られた。 キリストにある兄弟姉妹なる良きクリスチャンにも会わせていただいた。

著者の場合の出エジプトは、出るべき教会だとわかって出たのではないが、出た後、主は聖書
の御言葉や神が立てられた預言者のメッセージや祈りによって、自分がどんな状態でどんなと
ころにいたのか、そして主は何を望まれているのかを教えていただいた。 そして、出エジプト
することによって、著者の場合、傲慢(ごうまん)な自我が砕かれ、肉(生まれつきのどうしようも
ない性質)が切り取られた。

神がなさることは、いつも聖書の御言葉に基づいており、あわれみ深く、後で見事に益にかえ
てくださる。 著者が出エジプトさせていただいたのは、11年も前のことである。 その後、多く
のキリスト教会は確実に聖書に予言されている通り、神の忌み嫌われる変質の道をまっしぐら
になっているようである。 しかし、そのような中にも、神が備えられた「のがれの町」がないわ
けではない。 聖書には仮庵(かりいお)の祭りということが書かれている。 「イスラエル人は
第七の月の祭りの間、仮庵の中に住まなければならない。(ネヘミヤ 8:14 )」
とあるが、公で
はないが、地下教会のような存在の「のがれの町」を神は今、備えつつあるようだ。 正しく、時
代を見分け、教会を見分けていきたいものだ。 

★新約聖書  第二コリント人への手紙  6:17 ,18
       それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れ
      ないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
       わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言
      われる。」

★旧約聖書  エレミヤ書  17:5
   主はこう仰せられる。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわ
   れよ。」

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