めんどり通信/2007年6月3日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★旧約聖書  詩篇   37:23 ,24
       人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れても
        まっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。

★旧約聖書  詩篇   62:8
       民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、わ
      れらの避け所である。

●最後の晩餐(最後のばんさんとはイエス・キリストが十字架にかけられる前、弟子たちと最後
の食事をしたこと)の時、主は御自身が人の罪のために十字架にかけられることを弟子達に話
されたが、その時、ペテロは「たとえ火の中、水の中、主にどこでもついて行きます」と宣言し
た。 

しかし、その後オリーブ山のゲツセマネで祭司長、民の長老たちから差し向けられた群集が、
イエスを捕まえに来たとき、ペテロをはじめ弟子たちは皆イエスを残して逃げてしまった。 その
後もペテロは主のことを「知らない。」と3度も裏切ってしまった。

ただ、そのことを主はすでにご存知だった。 だから「まことに、あなたに告げます。あなたは、
きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。(マルコ 14:30 )」
と前もっ
てペテロに言われた。

神は我々人のすべてをご存知である。 人の心の中を見ておられる。 たとえ人に力や能力や
賜物(たまもの)がなくてもよい。 大失敗してもよい。 強くなくても良い。 むしろ弱い者である
方がよい。 自分は信仰が強い、キリストから決して離れることなど絶対にないなどという自信
がなくてもよい。 

イエス様のために本当に命を捨てる覚悟を決め、自分の信仰の強さに自信があったペテロで
さえ、主を3度も知らないと裏切ったのだ。 だからクリスチャンは信仰を吟味してみる必要があ
るかもしれない。 また聖書もそのように語っている。( Uコリント 13:5 )  

ペテロの強さは彼自身が生まれながらに持っていた、性格的な強さだった。 だからその信仰
は、いざというときに役にすら立たなかったのだ。 我々人は、自分の力、生まれながら持って
いる強さや能力では、決して主に従い続けることはできないのである。 

3度主を知らないと言ったあと、鶏が二度泣くのを聞き、ペテロは激しく泣いたが、泣くと同時に
自分の無力さと弱さを知った。 それからのペテロは主によりすがらなければ進んでいけなく
なった。 神のあわれみと恵みによって生きるということを体得したようである。 その後も大小
様々な失敗はしたが、その度、本当の自分の無力さ弱さをますます知り、主に頼る生き方、恵
みの中で生きる生き方、聖霊によって導かれる生き方となった。

ペテロのこの地上での最後は、ネロ皇帝の迫害下で「師と同じ十字架ではもったいない」と、
ローマで逆さ十字架に掛けられたといわれている。 神の恵みと聖霊の導きの中で逆さ十字架
で殉教することができるほど本当の強さ、決して裏切ることのない主への信仰を培(つちか)わ
れてきた結果である。 

★新約聖書  第一ペテロ の手紙   1:7
       信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・
      キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。

●2千年前、揺るがしの風(悪霊が働くこと)が吹くことを神はゆるされた。 それで神は人の信
仰を試(ため)された。 終末には当時の(悪霊の)風よりもっと大きい大風(大々的に悪霊の働
き)が吹くことを神は聖書の中で我々に知らせてくださっている。 もうその兆しは見えている。

主の筆頭がしらのペテロでさえ、その風にやられてしまったのである。 だから聖書のあちらこ
ちらで「目をさましていなさい。」と書かれているのである。  主は「シモン、シモン。見なさい。
サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。  しかし、
わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、
立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ 22:31,32) 」
とペテロに言われた。

主が「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」と言ってくださったな
ら、大丈夫であろう。 主にこのように言っていただくためには、やはりペテロのように純粋に
「主に従いたい、従おう」という心根を持ち(もしなければ、そのような心をいただくように祈るこ
と)、自分に頼らず、自分におごらず、自分の弱さ、愚かさを知り、自分の長所や短所、自分
自身のことから解き放たれることが必要と思われる。
 
そのために我々が今できることは、とにかく祈ることである。 主が聞いてくださる祈りをするこ
とである。 純粋な心をもって祈ることである。 絶えず、時間をかけて主に祈り求めることであ
る。 神のことばを素直に受け入れることである。 信仰の創始者であり、完成者であるイエス
から目を離さないでいることである。(ヘブル人への手紙    12:2) 
そうすれば悪霊の大風が
吹いても倒れない信仰を主が培ってくださるであろう。 聖霊によって守ってくださるであろう。 
そうして永遠の命を獲得することができるのである。 今週も主に祈って生きたいものである。
 
★新約聖書     ヨハネの黙示録 13:10
       とりこになるべき者は、とりこにされて行く。剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければな
      らない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある。

★新約聖書 コロサイ人への手紙   1:23
       ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みか
      らはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。・・・