めんどり通信/2007年2月18日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書 ローマ人への手紙 1:20
      神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこ
       のかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地は
       ないのです。

●ダーウイン以後、人間の起源は猿から・・・ということが日本でも未だに教科書で取り上げて
いるが、聖書では、人は神のかたちに創造されたと記されている。 人間の起源だけでなく、
科学や物理、教育など多くの分野で進化することは良いこと、発展することは良いことと推進さ
れてきたが、昨今、それらの分野で歪みが起きてきていることは新聞、テレビのニュースを少し
見れば一目瞭然である。

良くなってきたはずなのに世界的にも日本国内においても次々起きる常識的な見方が通用し
ない様々な事件や事故、災害・・・。 聖書に書いてある通り神から離れた罪人が中心となって
発達、進化させてきたことが問題だったようである。 時に人間は行き詰まれば、自分にとって
都合の良い神々を造り上げ拝み、自由を奪うと勘違いして人間の上に立つ創造主は拒否して
きた。

罪人という罪とは、不品行、汚れ、好色、争い、ねたみ、憤り、党派心、そしり、陰口、高ぶり、
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、わがまま、むさぼり、弱い
ものいじめ、自分の欲を満足させるためならば他人を傷つけ、踏みつけることも平気、偽り、不
誠実・・・などである。

これらの罪を犯したことのないと言える人はひとりもいないであろう。 聖書にも「すべての人
は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、・・(ローマ 3:23 )」
と記されている。
すべての人間は神の前に罪人である。

★新約聖書  ヘブル 人への手紙 9:27
   そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている

★新約聖書  第二テサロニケ人への手紙  1:8,9
       そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復さ
       れます。
       そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰
       を受けるのです。

●どんな人間も必ず一生を終える時が来る。 死後について人間は様々な想像力を発揮し独
自に様々な死生観を作ってきた。 宗教という名を用いて多くの人に共感を覚えさせているもの
もあるようだ。 しかし、いずれにしても人間の知恵と想像力の産物には違いない。

聖書にははっきりとした死生観が書かれている。 「死と復活」ということが大きなテーマとして
様々な表現やたとえを用いて書かれている。 キリスト教にとって死は人生の終わりではない。 
来たる日、すなわちイエス・キリストが再び来られる時に、すでに死んだ者も、生きている者も
神による審判を受けなければならない。 その最後の裁きのとき一人一人、最終的な行き先、
天の御国か永遠の地獄かが明らかになる。

だからこの地上は死ぬ準備をするところである。 高齢になったから死ぬ準備というわけでは
ない。 人間はいつどうなるのかわからない。  「あなたがたには、あすのことはわからないの
です。(ヤコブ 4:14 )」
と書かれている通りである。 

死ぬ準備とは、それはキリストを救い主として受け入れて神と和解することである。 そして神
に従うことである。 神の審判とはあらゆる不敬虔と不正など罪を犯す罪人に対しては容赦の
ない神の怒りが下されるということである。 つまり地獄行きを宣告されるのである。 

★新約聖書  ガラテヤ人への手紙 1:4
   キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身を
   お捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。

★新約聖書  使途行伝 4:12
   この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名
   のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていな
   いからです。」

●神の前に立ったとき、罪人の人間は誰一人としてそのままでは良しとされない。 しかし、神
は救済の方法を人間に与えてくださった。  神のひとり子イエスを我々の罪の身代わりに十
字架につけることを良しとしてくださった。 キリストの十字架の血によって平和はつくられ、主イ
エス・キリストを信じる者に神との和解を与えてくださったのだ。 そして、3日目にキリストはよ
みがえられて、この方以外に救いはないことを明らかにされた。

神は本当は「すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられる。(第一テモテ
の手紙   2:4 )」
 ただ、救いは強制でも押し付けでもない。 救いは提供されているが、ある意
味それを受け入れるかどうかは人間の意志、心に係っている。

地獄では何もわからない状態ではなく、意識を持ったまま永遠に苦しみ続け、罪の報いを受け
るから、人は救われなければならないと言えるのではないだろうか。 主イエス・キリスト様を我
々の救い主として信じ、罪赦されて、救いを得て、やがて来るであろうこの地上の終わりの時に
は裁かれるのではなく、永遠の命を獲得したいものである。

★新約聖書  第二コリント人への手紙 13:5
   あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それ
   とも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのです
        か。・・あなたがたがそれに不適格であれば別です。・・

●もうすでに主イエスを信じて罪赦され、クリスチャンになっているから私は大丈夫という者は、
もう一度自分の信仰を吟味する必要があると思われる。 聖書は『主よ、主よ。』と言う者がみ
な天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいる。(マ
タイ 7:21 )」
といっている。 主イエス・キリストを信じ続け、神の御ことばを聖霊の助けによって
行って、主の御心にかなう者となって、神から見られて、クリスチャン(=キリストに従う者)と言
われる者でありたいものである。