めんどり通信/2007年2月11日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書 マタイによる福音書  16:18
     ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教
        会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。

★新約聖書 マタイによる福音書   13:31~13:32
       イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなもの
       です。それを取って、畑に蒔くと、
       どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、
       その枝に巣を作るほどの木になります。」

マタイ13:34で「イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには
何もお話しにならなかった。」
といわれるほど 聖書は”たとえ”で満ちている。 またマルコ
4:13で「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができ
ましょう。』
といわれるほど、我々がたとえを理解することを望んでおられる。 それは”たとえ”
、別の言い方ですれば、神の奥義、主の御心を我々が知ることを望んでおられるからである。

さて、上記のマタイ 13:31~13:32の箇所を多くの教会では、良いことのように言われている。 し
かし、どうも良いことではなさそうである。 からし種は信仰を意味する。 それは小さいけれど
純粋な信仰を象徴する。 ところが成長していくにつれてその種(野菜)の区分を超え、全く別
の種、鳥が巣を作れるほどの木になる。 鳥は聖書の他の箇所からすると悪霊をあらわす。 

教会は当初小さいが純粋な信仰を持つ集まりとして始まったが、成長して、規模が大きくなるに
つれて変質してきて、鳥(悪霊)が宿るものになってしまったということをこのたとえでは意味して
いる。 実際、使途行伝に記されているようにペンテコステ(聖霊降臨)と呼ばれる日に始まっ
た教会は小さな群れだった。 クリスチャンはキリストのためには命をかけて福音伝道をし、自
らもみ言葉に忠実に生きていた。

確かに教会は成長した。 今や世界のキリスト教人口、カトリック10億人、プロテスタント10億人
である。 しかし、現実をみてみると、みことば通りになってしまったようである。 

旧約聖書のネヘミヤ記8:13~8:18にも終末の日には、エジプト化(世的)した教会から出ていくこ
とにみこころがあることを当時の実際の出来事が”たとえ”とした形で記されている。 多くのク
リスチャン、教師は、聖書を表面的にしか読んでいないので偽教理に惑わされていくことの警
告と受け取れる。 だから正式、正統的教会以外のところに地下教会をつくれとの意味合いと
理解できる。

昔はキリスト教会には大きな違和感やら偽りなどは浮上してきていなかった。 何か宗教を選
ぶならば、キリスト教が金儲けもせず一番まともであり、親切、誠実と思われていたし、実際、
そうであったと思われる。 しかし、もうすでに古き良き教会の時代は過ぎ去ってしまったようで
ある。

全部とは言わないが、多くの教会は信者を集めることに躍起となり、だから目的主導型教会す
なわち教会成長、信者数拡大、献金倍増を第一に優先し、目的のためには、教理の改ざん歓
迎、悪霊の器もよし、カトリックの合同大歓迎というような偽り教理にまんまと引っ掛かってし
まっている。 また、クリスチャンは決してさばかれないから何をしても大丈夫、教えの違いには
目をつむって一致して全人類みな平和でいこうなど耳障りのいい説教が教会でされており、信
者もそれを喜んでいるということを聞く。 

魔術的な色合いの濃い本や悪霊の火(霊)を下すことの盛んな伝道者、牧師、教師、聖書学者
などの本が、キリスト教書店において売られており、キリスト教音楽といえども明らかに変な霊
の影響を受けているのが多くなった。 すっかりキリスト教書店の本や雑誌、新聞などは悪霊
の影響下にあるようだ。

惑わしは既にエデンの園のときからあり、アダムとエバは見事に引っ掛かって、永遠の命の木
から引き離されてしまった。 教会歴史の中には絶えず偽りと惑わしが入ってきていたが、それ
でもまだ昔の教会は古き良き教会と言えたところがあった。 しかし、今終末に入ったかどうか
はわからないが、キリスト教会のほとんどの様相が変わってきたように思える。 どこの教会で
も大丈夫という時代は終わったのかもしれない。

しかし、聖書は「すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。(ローマ 3:
4)」
とあり、 「天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありま
せん。全部が成就されます。 (マタイ 5:18)」
とある。 

そして、同じ聖書に「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかりま
す。たたきなさい。そうすれば開かれます。(マタイ 7:7 )」 「だれであれ、求める者は受け、捜
す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(マタイ 7:8)」
とある。

一人ひとりが聖霊に導かれて聖書から正しく神のいわんとされることを受け取らなければ、道
を間違えて悪霊の思う壺に入ってしまう時代になったようである。 しかし、真に主に求める者
には必ず聖霊の導きがあり、正しい教会へ導いてくださり、正しい教えを与え悟らせてくださる
であろう。 全能の神に、主イエス・キリストに真剣に求めていきたいものである。

★新約聖書  第一ヨハネの手紙  2:27
   あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまってい
        ます。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについ
        てあなたがたを教えるように、・・その教えは真理であって偽りではありません。・・また、
        その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。

★新約聖書  ローマ人への手紙  10:12
   ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼
        び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。