めんどり通信/2006年11月19日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書 マタイによる福音書 11:28〜30
       すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたが
      たを休ませてあげます。
       わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしか
       ら学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
       わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

●上記の御言葉は主イエス・キリストが我々人に語りかけておられる。  人間、この地上で
生きている間には、人によって様々ではあるが、疲れを感じたり、重荷を負う経験をすることが
多いと思われる。 疲れでも、肉体的な疲れと 心の疲れがあるが、心の疲れの方がその人の
生き様に悪影響を与えることが多いのではないだろうか。 心の疲れは、その人が正しい思
考、正しい判断、正しい決断をすることを妨げてしまう。 

主がこの地上におられた約2千年前の疲れ、重荷とは、「・・・しなければならない」「・・・しては
いけない」という律法主義に縛(しば)られたものであった。 当時、真面目に誠実に律法を守ろ
うとする者が疲れていた。 現代もよく似ていると思われる。 もちろん現代は、表面それなりに
過ごしていたとしても、人の心の奥底では真面目、純粋、誠実な者だけではなく、ほとんど多く
の者が疲れ、重荷を負っているのではないだろうか。 

★新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:1
   キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたが
       たは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

●まず、主は「わたしのところに来なさい!」と招いておられる。 そして、「キリストのくびきを
負ってキリストから学びなさい」と言われる。 くびきとは、2頭の牛、馬の首に当ててつなぎ、そ
れの自由を奪い、それぞれに同じ力がかかるようにして作業をさせる道具のことである。

キリストのくびきは負いやすく、荷は軽いといわれる。 イエス・キリストは我々に自由を与える
ために、キリストのくびきを負うことを薦(すす)められている。 人は、くびきがない方が自由だ
と勘違いするが、くびきがないと言っても、案外、人は何かのくびきを負っているものである。  
人目を気にする、金持ちになりたい、賢くなりたい見られたい、あれをしなければならない、き
ちんとしておかなければ世間様にとやかく言われる、ビジネスライクな振る舞い、能率主義、
完璧主義、・・・等など。 それらは奴隷のくびきであり、私たちを疲れさせるものである。

くびきを負うということは、言い方を変えれば、何かの支配を受けているとも言える。 人の生き
方は誰に、何に支配されているかで変わってくるものである。 

キリストのくびきを負うことは、重荷と思っていたことも軽くなるのである。 全能の神、主イエ
ス・キリスト以外の支配から解放されるからある。 それが聖書がいう、本当の自由である。 
そして、そこには本当の平安もある。 

我々は だれと何とくびきを共にするのかということで、生き方が変わってくる。 誰に何に支配
されているかで生き方が全然違うのである。 それはともにくびきを負ったものの影響を受ける
からである。 イエス・キリストのくびきは負いやすい。 なぜなら、心優しく、へりくだっている方
が一緒にくびきを負ってくださるからである。 

主が言われる軽い「荷」は、イエスをとおしてきた「めぐみとまこと」を意味すると考えられる。 
だから、我々は、この地上におる間に、キリストのくびきを負って、主イエス・キリストと共に同じ
方向に進み、イエスをとおしてきた神の「めぐみとまこと」を受けていきたいものである。 主と
ともに行く行き先は、天の御国なのである。 また、その道中(この地上での歩み)は主に守ら
れ、教えられて、本当の休みを体験しながら進めるのである。 
イエスの招きに応じて 本当の休息を得続けていきたいものである! 

★新約聖書  第一ペテロの手紙 5:11
   どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。

★新約聖書 ヨハネによる福音書 1:17
       律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたので
        ある。