めんどり通信/2006年9月3日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★旧約聖書 詩篇 86:11
   主よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を
   一つにしてください。御名を恐れるように。

★旧約聖書 詩篇 143:8
   朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。私に行くべき
   道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。

●8月13日のめんどり通信で民数記22章の預言者バラムについて書いたが、この箇所は、
我々がこの地上の道を歩むにあたって、いかに聖霊の働きと導きが必要であるかを教えてい
ると思われる。  

モアブの王バラクから、位の高いつかさたちが迎えに来たことや、銀や金の満ちた家をくれると
の申し出に、すっかりバラムの心が傾き、彼は神のみこころから離れ始めていた。 バラムが
ろばに乗って道を歩み出したときには、彼の心に違う道を行く決定がなされていた。

誰が何と言おうと揺るがない彼の決定を見られたとき、神は、使いの者たちと行くように言わ
れた。(民数記 22:20) しかし、この間違った道へ進むことは、神の怒りをかうようになるので
ある。 

★旧約聖書 箴言 14:12,16:25
   人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。

●ろばに乗って進み出すと、ろばは主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがって
いるのを見たので、道からそれた。 バラムは預言者であったにもかかわらず、この主の使い
が見えなかった。 それで、ろばをもとの道に戻そうとした。 しかし主の使いは、両側に石垣
のあるぶどう畑の間の狭い道に立っていたので、ろばは石垣に身を押しつけた。 

バラムは自分の足が石垣に押し付けられて痛かったので、また、ろばを打った。 主の使い
は、右にも左にもよける余地のない狭い所に立ったので、とうとう、ろばはバラムを背にしたま
ま、うずくまってしまった。 バラムはそれに腹をたて、また杖でろばを打った。 

ここで、ろばは我々を導いてくださる聖霊をあらわしているが、物事を正しく見ていたのは聖霊
であった。 バラムの心の中には罪を秘めていたので、間違った道の選択がすでになされてお
り、彼には見ることができなかったのである。 

間違った道を歩んで行けば、主の使いが抜き身の剣を手に持って敵対して立っているのであ
る。 そのまま進めば殺されるのだ。 命を失うのだ。 つまり永遠のいのちを失うと聖書は我々に
教えている。 

★旧約聖書 箴言 3:6
   あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにさ
    れる。

●ろばが回避しなければ、バラムは殺されていた。 我々クリスチャンが間違った道を歩んで
いるとき、ろば(聖霊)は回避しようとしてくださる。 その時、ここのバラムのように石垣に足を
押し付けられて痛いことがあるかもしれない。 それは自業自得(じごうじとく)なのである。 
しかし、足が痛いだけですむなら幸いである。 殺されて(永遠の)いのちを失い地獄に行くこと
を思えば、足の痛みなど、十分耐えられるはずである。<足の痛みとは人により様々な事柄で
あろう>

痛い目にあったときには、どうしてなのかと、よくよく祈って考えてみる必要がある。 今、歩ん
でいる道は主のみこころなのかどうか、よくよく祈る必要がある。  クリスチャンでも往々にし
て見えていないことが多い。 見えているのは聖霊だから、祈って聖霊の導きを求めていくこと
が大切である。 主は、主のみこころの道を歩みたいと祈り求める者には必ず教えてくださる。

また、ろばがものを言ったように、聖霊は人を通して語られる場合が多いので、人が語ることば
には耳を傾けることが大切と思われる。ただ、この人というときは、多くは神が立てられた器を
通してということが聖書に記されている。 

また、ろばがうずくまったように、神のみこころがあるときしか進めないので、無理して我を押し
通そうとすると危ないことになる。 我々は絶えず、”わたしが道である”と仰せられる主イエス・
キリストに心をむけて、主の定められた正しい道を歩めるように、日々祈り求めていきたいもの
である。 そして、歩んでいる道を主によって確かなものとしていただきたいものである。

★新約聖書 ヨハネによる福音書 14:6
   イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通し
   てでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

★旧約聖書 箴言 16:9
   人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主で
   ある。