めんどり通信/2006年8月27日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書  コロサイ人への手紙 2:13,14 
   あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのよう
   なあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を
   赦し、  いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証
   書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。

●旧約聖書の民数記21章でイスラエル人がエジプトを出て進み、ホル山からエドムの地を迂
回(うかい)して、葦(あし)の海の道に向かっていた途中のことである。 

人々は、荒野を通っていたが、食べ物として、神が与えてくださっていたマナという天からのパ
ンに飽き、神とモーセ(神が立てられた器)に逆らい、不平不満を言い、立ち向かった。 この
所に着くまでにも、民は何度も、神とモーセに逆らい、その度に神のさばきにあっていたのだ
が、ここでもまた同じことを繰り返そうとしていた。

このことは、イスラエル人のことというより、人間のどうしようもない罪の性質を表しているように
思える。 人間というのは案外、『喉元(のどもと)過ぎれば熱さを忘れる』ということわざのよう
な者であろうと思われる。 土壇場(どたんば)に立たされたときに、その人の本性が顕れると
言われるが、神が人を見られたときに「彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果ててい
る。善を行なう者はいない。ひとりもいない。 (詩篇 14:3)
」と言われている。 

人というのは、聖霊によって真に罪を罪として知り、神のご慈愛(じあい)によって、真の悔い改
めに導かれて、神により罪を許され、キリストによって生まれつきの性質(肉)が砕かれ、変えら
れ始められていなければ、また、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた
者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Uコリント 5:17)」
というみこ
とばを信じて、その人の内でみことばが働き出した者でなければ、いざという土壇場で、本性が
顕れたときに、やはりここのイスラエル人と同じように、またぞろ、同じ愚かなことを繰り返すよ
うな者ではないだろうか。

さて、神とモーセに逆らった民の中に主は蛇を送られた。 蛇は民にかみつき、多くの人々が
死んだ。 まさに神のさばきである。 民はモーセのところに来て、罪を告白し、悔い改め、助
けてくれるよう神へのとりなしを嘆願した。

モーセは民のために祈った。 すると神からの指示があり、一つの青銅の蛇を作り、それを旗
ざおの上につけた。 もし、蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きる!と神
は定められた。 実際、蛇にかまれた人で、そのことばを信じて、青銅の蛇を仰ぎ見た者は生
きた、ということである。

★新約聖書 使徒行伝 4:12
   この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私た
   ちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」 

●モーセの時代においても、神がモーセを通して言われたことばを信じて旗ざおにつけられた
青銅の蛇を仰ぎ見た者と仰ぎ見なかった者がいたようである。 この「旗ざおにつけられた青銅
の蛇」は明らかに、イエスが十字架で死なれたという出来事の予表である。 

十字架は死ぬところである。 また滅ぼされるところである。 十字架にあげられる、という言葉
の「あげられる」という言語には「滅ぼす」という意味合いが含まれているという。 イエスさまは
十字架で、我々罪人の罪を負ってくださって、身代わりとなり死んでくださった、と同時に、
サタンの力を破壊(はかい)してくださったのである。(ヘブル 2:14,15 )

本来、我々の内に働くサタンの力は、もうすでに十字架によって、滅ぼされているのである。 
我々が十字架を見上げて主イエス・キリストを信じる。 そうすると我々の内で神の力が働き出
すのである。 

イスラエル人が 主から示された いのちを取り戻す道は「青銅の蛇」だった。 今日、罪人で
ある我々が、滅びに向かわず、いのちを取り戻す道は「十字架につけられたイエス」であり、三
日目によみがえられて今も生きておられる「主イエス・キリスト」である。

★新約聖書  第一コリント人への手紙 1:18
   十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の
   力です。

●イエスが我々の罪の身代わりとなって死んでくださった、三日目に復活されて今も生きておら
れ、滅びに向かっている人間を救おうと御手を伸ばされている、このことを信じるなら救われ
る、ということは一見、愚かそうな話しである。 そうそう簡単に人が真に受け入れられない話し
である。 しかし聖書は上記のみことばのようにいっている。 これは真に神を求め、真の救い
を求める者にのみ開かれる、悟らせていただける、神の方法なのである。

幼子のように素直に神のことばを信じ、十字架を仰ぎ見て、主に祈る者の内に、神のいのちが
働いてくるのである。 我々は、日々、十字架のキリストを見上げて、絶えず祈り、真に生きる
者にしていただきたいものである。

★旧約聖書 イザヤ書 45:22
   地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいな
   い。