めんどり通信/2006年7月30日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書 ヨハネの黙示録  3:20
   見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、
   わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

●旧約聖書の創世記19章にソドムとゴモラの町が神によって滅ぼされたことが記されている。 
三人の御使い(その中の一人は主と思われる)がアブラハムのところにやって来た。 

当時、99歳のアブラハムには子がなかったが、神は、神との契約を守るならば、アブラハムと
彼の子孫はカナンの地、つまり天の御国を受けつぐとの約束を与えられた。 この約束は今に
続いている。 アブラハムの子孫とは、血筋においてと信仰による、いわば霊においての子孫
である。 

神の契約(神の戒め、警告などは聖書に記されている)を守るならば、天の御国に入れる!
(これは将来のこと) 神との契約を守るなら神のわざを見ていくことができる!(現在、体験で
きること)  アブラハムとその子孫は、真のクリスチャンと言えるであろう。

さて、御使いは子のなかったアブラハムに、子ができるとの良い知らせを告げた後、ソドムの
方へ向かって行った。 ソドムは当時、罪が非常に大きく、きわめて重く、蔓延(まんえん)して
滅ぼされても仕方がないというくらいだったようである。 

神は、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトと家族がソドムから
出て行くと、その日に、火と硫黄により、すべての人を滅ぼされた。

これは、旧約時代のことだけ、というのではない。 主は終末には、世もキリスト教会もソドム
やゴモラより、もっと悪くなる、罪深くなると言われる。 だから、神に裁かれて当然という具合
になるのである。

★新約聖書 マタイによる福音書 10:15
   まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町より
   はまだ罰が軽いのです。

●ロトを救いに来た御使いたちが、ロトの家に入ったとき、町の人々が御使いたちをひどいめ
にあわそうと押し寄せてきた。 戸口で応対していたロトを、御使いたちは家に引き入れ、戸を
閉め、戸口にいる人々に目つぶしをくらわした。 人々は戸口を見つけることができなくなっ
た。 戸が救われる者と裁きにあう者との境目となった。

終末にも救いの戸を境目として、天の御国に入れるアブラハムの子孫(真のクリスチャン)と戸
の外で神の裁きにあうクリスチャンと世の人々というように分かれる。 もうその区分は始まっ
ているようである。 このことを厳粛(げんしゅく)に受けとめることのできる者は幸いである。

まだ主イエス・キリストを受け入れていない者は、救いの戸を開けて中に入らなければ、神の
裁きにはいってしまう。 また、一旦、主イエス・キリストを受け入れた者も本当に信仰があるか
どうか吟味が必要と思われる。 主は「人の子が来たとき(再臨のとき)、はたして地上に信
仰が見られるでしょうか。」 (ルカ 18:8)
と言われたからである。

クリスチャンと言ってもマタイ25章に記されている十人の娘のうち、五人は主をお迎えする備
えができていなくて、結局、婚礼の祝宴の戸(天の御国に入る戸)が閉められてしまった。 入
れなかった五人は、聖霊をきちんと宿し、その声に聞き従っていなかったのである。

我々は、未信者の者であれ、クリスチャンであれ、まずは主イエス・キリストを真に受け入れ、
聖霊を受けて正しく導かれなければゴールにたどり着くことができない。 

我々は、日々、主に心を向け、罪のあるやなしやを探っていただき、神の御前にへりくだって、
主の御ことばに従って、聖霊に導かれたいものである。 そして来るべき神の裁きから逃れさ
せていただき、無事、間違いなく天の御国にたどり着きたいものである。 

★新約聖書 ルカによる福音書 11:10
   だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

★旧約聖書 エゼキエル書 9:4
   主は彼にこう仰せられた。「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれてい
   るすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。」