めんどり通信/2006年7月2日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★旧約聖書 黙示録 14:7
   彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と
   地と海と水の源を創造した方を拝め。」

★新約聖書  第一ペテロの手紙 1:2
   父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血
   の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にま
   すます豊かにされますように。

●旧約聖書の出エジプト記に神の民イスラエル人が、エジプトを脱出したことが記されている。
当時、奴隷としてエジプトで過酷な労働を課せられて苦しめられていた神の民イスラエル人をエ
ジプトから脱出させるために神はモーセを立てられた。 

エジプトの王パロは、モーセの「イスラエルの神、主が言われる。わたしの民を行かせよ。」とい
う申し出をすんなりとは認めなかった。 そこで、神はエジプトに十の災いを下された。 十番目
の災いは、エジプト中のすべての初子(ういご=第一子)はすべて死ぬという災いであった。

主はモーセを通して語られた。 各家族ごとに傷のない1頭の羊をほふり、その血を家々の二
本の門柱と、かもいに塗れ!と。 夜中に、神のさばきを行なう死の使いが来ても、その血を見
て過ぎこすからと。

イスラエルの人々は、神が言われたとおりにしたので、さばきを過ぎ越されたが、エジプトでは
死人の出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった、と記されて
いる。

★新約聖書  第一ペテロの手紙  4:17
   なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから
   始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。

★新約聖書  コロサイ 人への手紙 2:14
   いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無
   効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。

●この出エジプトは型として現在の我々にも語りかけがある。 この世はますます悪くなってい
るが、聖書によるならまだもっと悪くなるであろうと思われる。 人々の愛は冷え、常識さえも通
用しなくなり、殺人が横行し、考えられないことが次々起こっている。 平気で親は子を殺し、子
は親を殺す時代となってしまった。 人は罪に対して鈍くなり、罪悪感は失せてしまったかのよ
うである。 旧約のノアの時代、裁きがあったが、現在はノアの時代と同じか、いやノアの時代
以上に悪い時代かもしれない。 神がこの世を裁かれるのは当然のことと言える。

裁きについては、世だけではない。 罪の悔い改めを勧め、キリストの救いを伝える教会も悪く
なってきた。 聖書の書いていることが、神のいわんとしていることが変質してきたのである。
変質させるものが大々的に出て来た。  そして、それに異議を唱えるクリスチャンが少ないだ
けでなく、むしろ惑わされて変質した教理に賛同するクリスチャンや教会が多い。 

出エジプト記で門柱とかもいに塗られた血は傷のない羊の血であったが、これは、まったく罪が
ないイエスの十字架で流された血を表わす。 我々人の罪をあがない、救うことができるのは、
キリストの十字架の血であり、神はそれを見て、さばきを過ぎ越されることを語っている。

聖書には人は神の前に一度さばきを受けることが定まっていると記されているが、結局、クリス
チャンであれ、未信者であれ、この地上での罪を清算するときが、必ず来るが、その時、神の
さばきから守ってくれるのは、十字架の血なのである。

一度主イエスを信じてクリスチャンになれば、決して救いからもれることはない、神は愛だから
必ず天の御国へ入れるとか、教会につながっていれば大丈夫とか、イエスを裏切ったイスカリ
オテのユダも改心して救われているとか、この地上で悔い改めて主イエスを受け入れることが
出来なくても死んだ後チャンスがある(セカンドチャンス)とかどの宗教からでも神に至る、救わ
れる(多元主義)とか・・・。 このようないい加減な神と神のことば(聖書)を冒とくするような教
理から真のクリスチャンや教会は出エジプトすべきである!!

このイエス・キリストの十字架で流された血の教えを変えようとする、また変えられた教理を受
け入れてしまう教会、クリスチャンも裁かれて当然であろう。 

★新約聖書 ヨハネによる福音書 6:54
   わたし(イエス・キリスト)の肉を食べ、わたし(イエス・キリスト)の血を飲む者は、永遠の
    いのちを持っています。わたし(イエス・キリスト)は終わりの日にその人をよみがえらせ
    ます。

●今後、日々の生活でキリストの血をきちんと受けていくことが大切である。 キリストの血を受
けるとは聖霊に触れられていくということである。 聖霊に触れられるためには、祈りである。 
主に祈ることである。 ”門柱とかもいに血を塗る”とは、聖霊に聞き従うことである。 とにかく
聖霊に触れられることである。 人は自分の力では、悟ることもみことばを行なうことも出来な
いからである。 聖霊に触れられて神の恵みと祝福をいただき、やがて来る神のさばきの時を
過ぎ越したいものである。 

★新約聖書  エペソ 人への手紙 1:14
   聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためで
   あり、神の栄光がほめたたえられるためです。