めんどり通信/2006年6月11日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書 ルカによる福音書 12:32
   小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがた
   に御国をお与えになるからです。

★新約聖書 マタイによる福音書 7:13
   狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこか
   らはいって行く者が多いのです。

●旧約聖書の士師記7章にこんな話しが記載されている。 イスラエル人ギデオンは、ミデアン
人たちと戦うために陣に集まった。 3万3千人もの者が集まったが、主はギデオンに言われ
た。  「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。
イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。
今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさ
い。』と言え。」(士師記7:2〜3)

そうすると、2万2千人が帰っていった。 主は「民はまだ多すぎる。」と言われ、試しを受けて、
最終的に、3百人が残った。 そして、主の導きにより、いなごのように大ぜいいた敵に勝利す
ることができた、という話しである。

また、第一 列王記18章にはこんな話しが記載されている。 主の真の預言者エリヤ一人と
バアルの預言者450人、アシェラの預言者400人が、カルメル山の上に集まり対決した。
エリヤは、まさに命がけで、イスラエルの神こそは、生けるまことの神であることを証しした。
神はエリヤの祈りに答えてくださり、天からの火が犠牲の動物を焼き尽くして、エリヤの完全勝
利に終わった。 そして、エリヤは偶像礼拝をしていたイスラエルの民に、主に従うのか、それ
ともバアルに従うのか、厳しく問うた、という話しである。

これらの話しでは多勢と少数という面で見てみると、少数派の方が勝利をしている。 しかし、
今は、多数決の時代である。 民主主義の時代である。 少数派は負けてしまう。 確かに、
世の中のことで多数決、多勢が良いと思われることも多いことは事実であるが、もし、多勢の
方が間違っていたなら、と考えると恐ろしくもある。 

イエスがキリストとして立たれたとき、大ぜいの人々が、イエスの行なっておられることを聞い
て、イエスについて行った。 大ぜいの群衆がついて来たので、主は彼らをおいやしになった。

しかし、主が 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。
わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」(ヨハネ福 6:54)
と真理を言われると、
大ぜいの群衆や多くの弟子たちは主から離れて行き、12弟子たちとほんの少数の弟子たち
だけが、主のもとに残った。 

聖書では、あちらこちらに、”残りのもの””残ったもの”は少数であり、勝利を得る、つまり永遠
の命に預かるということが記されている。 クリスチャンやキリスト教会は多数決ではなく、本
来、神の言われていることを選択すべきであるが、今日のキリスト教会では、多数決の原理が
横行し、聖書の基準ということから、はずれてきているようである。 そして、キリスト教会でも
多数決で教理が決められ、その教理、教えが間違っていても、少数派が負けてしまうという現
象が起きてきつつあるようだ。

 神を基準、聖書を基準とすべき時がきたのではないだろうか。 ただ、聖書も神の真にいわ
んとしておられることを我々に伝えるために、たとえを用いている箇所においても、差別だ、悪
い言葉を使用して、人を傷つけてはならないなどとのへ理屈を述べて、言葉を変えて、神の真
に言わんとすることを見えなくする聖書翻訳になってきた。 まさに、聖書の改ざんという、神を
冒涜(ぼうとく)する行為であるが、それを勧めるキリスト教指導者が増え、それを受け入れるク
リスチャンが多くなった。 <例:今までの聖書には”らい病”という言葉があった。らい病で神は
罪のことを教えているのだが、そんな差別的な言葉を使ってはいけないなどと、最近の聖書
は”ツァラアトに冒された人”や”重い皮膚病”と変更された>

これからの道において、多勢だから、大ぜいだからと安心できるものではないようである。
我々は、聖霊に導かれていなければ、惑わされてしまうようである。 主は言われた。
「また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。 また、にせ預言
者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たく
なります。(マタイ 24:10〜12 )

上記の旧約聖書の記述のように、主がともにおられたなら、たとえ一人でも完全なる勝利なの
である。 バアルの預言者たちは惑わされ、またイスラエル人も彼らに惑わされていたけれど
も、真に主についたエリヤは正しい神の道を知っただけでなく、勝利を得ることができたのであ
る。

また、ギデオンも主がともにおられ、主が導いてくださっていたから、少数派であっても、いなご
のように大ぜいいた敵に勝利したのである。

聖書によるなら今後、キリスト教会の中においてでさえ、惑わしが入ってきて、多くのクリスチャ
ンが惑わされるということである。 惑わされたものは、せっかく主が、あがなってくださった罪
が、またその人に返ってきて、自分で罪の責任を負わなければならなくなる。 つまり永遠の命
を失う、天の御国に入れなくなるのである。

世の中がどのように曲がって進もうが、キリスト教会がどのように道をそれていこうが、我々は
神が示してくださる正しい道を進んでいきたいものである。 そのため、いよいよ、主イエス・キ
リストに心を向けて、祈り求めていきたいものである。

★旧約聖書 詩篇 16:11
   あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あな
   たの右には、楽しみがとこしえにあります。

★旧約聖書 箴言 4:11
   私は知恵の道をあなたに教え、正しい道筋にあなたを導いた。