めんどり通信/2006年4月23日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書 マタイによる福音書 マタイ 11:28 、29 、30
   すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたが
   たを休ませてあげます。
    <マタイ 11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなた
      がたを休ませてあげよう。 口語訳>

   わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしか
   ら学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
   わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

●長い間、重荷を負っている状態で過ごしていると、時には人をうらやましく思い、またねたむ
ことも多くなると思われる。 もちろん重荷を負っていない者でもそういうことは多いものである。 
心にも余裕がなくなり、知らず知らずのうちに心が傷つきやすくなっているかもしれない。 いや
むしろ傷ついている場合が多いのではないだろうか。 

手負いの(傷ついた)ライオンというのは更に攻撃的になるという。 警戒心が強くなり、防御心
も強くなって、自分の身を守ろうと攻撃的になるものであるらしい。 

ともすれば人も同じようなところがあるのではないだろうか。 心の奥にある傷は、その人を萎
縮(いしゅく)させたり、少しのことで落ち込ませたりするものである。 そして、時には人に対し
て無意識に攻撃的になることもあると思われる。 いじめられた者が、いじめる側になることが
多いように、人にとって不幸なこと、特に心の傷は、その人のその後の生き方をも変えてしまう
おそれがある。 

しかし、多くの場合、案外それに気づいている者が少ないのではないだろうか。 自分が傷つい
ていることさえ気づかず日常の生活をしている者も多いと思われる。 

重荷を負うことは、美徳のようで実はそうでない。 その人を苦しめるとともに、その周りの者た
ちにも悪影響を与えてしまうと思われる。 重荷であっても、どのような重荷であるのかにもよる
だろうが、心が傷ついたり、圧迫されたり、周りの人々、特に家族に悪影響など及ぼしたくない
ものである。

★新約聖書 コロサイ人への手紙  2:14
   いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無
   効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。

★新約聖書  第一ペテロの手紙 2:24
   そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが
   罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いや
   されたのです。
 
●しかし、手負いのライオンは、その傷がいやされて心健全な生活に戻るならば、攻撃性も少
なくなるであろう。 人も同じである。 心の傷がいやされて、心に傷をつけやすくすると思われ
る重荷が取り除かれて、始めて解放された生き方へと進めるのではないだろうか。 

人は心の傷がいやされるために、様々な方法を取り入れようと試みる。 また、重荷を取り除こ
うと、体にも心にも鞭(むち)打って努力する。 そして、また傷つき、重荷から解放されるどころ
か、沼地で足を取られた者のように沈んでいく。 なんとむなしいことか。 みじめなことか。

★新約聖書 ローマ人への手紙 7:23、24、25
   私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいど
   み、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
  私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれる
   のでしょうか。
   私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では
   神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

★旧約聖書 イザヤ書  53:5
   しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれ
   た。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼(イエス・キリスト)の打ち傷によって、
   私たちはいやされた。

●しかし、朗報がある。 主イエスが仰せられた。 「汝(なんじ)の傷をいやし、重荷を取り除く
ゆえ、重荷をおろせ。そして、我のくびきを負って我に従え。」と

主イエス・キリストは我々を押しつぶす重荷や罪や咎(とが)などを、我々に代わって十字架で
”死”ということにより処分してくださっているのだ。 我々の代わりに罪の刑罰を負ってくださっ
たのだ。 そして、3日目によみがえられて今も生きておられる。 だから主イエス・キリストに
求める者は誰でも救われるのである。 傷がいやされ、重荷を取り除かれ罪から解放されるの
である。 これが福音である。

そして、主は主のくびきを負って、わたしに学べと言われる。 くびきとは、並んだ2頭の牛の首
にかける農具である。 キリストを信じた者は、罪のくびきを下ろし、キリストと一緒のくびきを負
う。 それは新たな使命であり、キリストと共にある働きである。 本当の意味で人生を獲得し、
人間性を回復することである。 それが「キリストのくびきを負う」ことである。

神には神のみこころ、計画、方法、考え、意志がある。 神のみこころは真に求める人々には
明らかになる。 神はひとりひとりの前に神の道を定めて下さっている。 その主の定めてくだ
さった道が、実はその人を活き活きと生かせる道でもある。 その道は永遠の御国につながっ
ている。 天の御国を相続する者となるため、いよいよ真剣に主イエス・キリストに祈り求めて
、主が定めて下さっている命の道を歩んでいきたいものである。

★旧約聖書 詩篇 37:23、24
   人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。
   たといその人が倒れても、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられる
   からである。

★新約聖書  テトスへの手紙  3:6 、7
   神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでく
   ださったのです。
   それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、
   相続人となるためです。