めんどり通信/2006年4月2日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

 ★新約聖書 第一コリント人への手紙 1:20
    知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいる
    のですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。

★旧約聖書 創世記 2:17  
    しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、 
    あなたは必ず死ぬ。」

★旧約聖書 創世記 3:6  
    そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというそ
    の木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも
    与えたので、夫も食べた。

●人祖アダムとエバが、神が決して食べてはならないと言われたたった一つの戒めを守らず、
むしろ蛇(サタン)のことば「あなたがたは決して死なない。 それを食べると目が開け、神のよ
うになり、善悪を知るようになる。創世記3章」との言葉の方を信じ、神に背(そむ)いたときから
罪が入り、人は罪人となり下がってしまった。 

聖書は神のことばであり、全人類に与えられてはいるが、本来はクリスチャンに対して書かれ
ていると言っても過言ではないだろう。 旧約聖書は、旧約時代が終わったから、もう終わった
ものと多くの教会が、クリスチャンたちが言っていると聞いたことがあるが、愚かなことである。

神の御言葉は、 天地が滅びうせない限り、律法(聖書)の中の一点一画でも決してすたれるこ
とはなく、全部が成就されるべきものである。(マタイ 5:18)
 また、旧約聖書、新約聖書では、
神の真に言わんとされる御心、神の奥義は、たとえとして語られ、真に主を求める者たちだけ
が、わかるようになっている。 聖書を表面だけを読んでも、それでは決して、神の御心が分か
らないのである。 聖書は、その著書であられる神の霊(聖霊)によって理解できるものである。

さて、創世記のこの箇所で神が言わんとしておられることは、本来、神は人を(聖霊)の実を結
ぶ存在として造られた。 どのような種類のクリスチャンになっても良いが、(肉の)善悪の知識
による歩みをするようなクリスチャンにはなってはならない、ということである。 

目が開けることは、ともすれば人を高ぶらせる。 クリスチャンでも神学からいろいろな知識に
満ちてくると不思議なことは、そういう人は往々にしてクリスチャンの一線を越えてしまう。 主
としもべの関係を越えて、しもべの立場を離れ、いつの間にか判断者、命令者になっていく。 
蛇が言ったように、確かに「神のようになる」。 

 ★新約聖書 第二ペテロの手紙  3:18
    私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。こ
    のキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。

 ★新約聖書 第一コリント人への手紙  1:21
    事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。
    それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと
    定められたのです。

●「賢くする」という木の魅力にエバは惹かれた。 確かに人は「賢い、勉強ができる」などそう
いうことに弱い。 神のことばよりも知識の木の実を食べた結果、知識優先、学問優先、知恵
優先となり、表面的には、人間性優先と言いながらもいざとなれば、「賢さ」は人の意識の中で
はしっかりと一番になっているように思える。

キリスト教会でもこの世と同じように、たくさん知識を持った学者が優先され、その指示に従う
ことが信者の役目のようになっていることが多いと聞いたことがある。 しかし、学者が教会に
持ち込んでくる教理は、どうも怪しいようである。 何しろ、聖書に書いていないこと、たとえば
マリヤはキリストと共同の救い主であるとか、キリストは復活しなかったとかキリストの秘密の
再臨があるとか・・・。 それらは全て信仰を覆(くつがえ)すものであるからだ。

イエス・キリストがこの地上におられた約2千年前にも、惑わしは律法学者、パリサイ人たち(
今で言うなら神学者たち)を通して入ってきた。 今も今後も、やはりその人たちを通してクリス
チャンたちの中に教会の中に入ってくると思われる。

しかし、パリサイ人や律法学者たちは結局、イエスの教えに対抗することができず、キリスト教
は世界中に伝わっていった。 日本にいると信じがたいことであるかもしれないが、現にキリス
ト教人口は 20億人(カトリック十億、プロテスタント十億))となった。 今後、ますますクリス
チャン人口は増えてくると思われるが、しかし、神から見たクリスチャンがその中にどれほどい
るだろうか。 

本当は、知識の木の実を食べた女は結果として「苦しんで子を生む」。 それは、簡単には真
のクリスチャンになる、真に救われる人が現れないということであると思われる。 知識の木の
実を食べ続け、自信を深めていくと「人が神のようになり」傲慢(ごうまん)になる。 そういう人
々が増えてきて、常識さえ通用しなくなった。 世はおかしくなったと感じている人が増えた。

今は、蛇が大活躍している時代である。 だからこそ、人がますます知識の木の実を食べやす
い時代でもあると思われる。 世の中の常識さえ通用しなくなった時代であるのに、キリスト教
会においても同じであるのに、人々は相変わらず知識の木の実を食べ続けているように見受
けられる。 今後、蛇に騙されず、生きていくためには、神からの知恵が必要である。 

きちんと御言葉を読み、きちんと御言葉に触れていくなら、神の知恵を悟り、神の知識を与えら
れて、まっすぐに主の定めてくださった道を歩んでいけるであろう。 その行き先は永遠の御国
である。 主イエス・キリストを真に信じて、祈り求めていきたいものである。

 ★新約聖書 第一コリント人への手紙  1:22 〜24
    ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架に
    つけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとって
    は愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっ
    ては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

★旧約聖書 箴言 2:3〜6
     もしあなたが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ、銀のように、これを捜し、隠され
     た宝のように、これを探り出すなら、そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の
     知識を見いだそう。主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ。