めんどり通信/2006年2月26日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書 第一コリント人への手紙 15:3 〜 15:5
   私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことで
   す。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
   また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
   また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。

★新約聖書 ヘブル人への手紙 2:14、2:15
   そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお
   持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を 持つ者を滅ぼし、
   一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

●イエス・キリストがこの地上におられた時、ユダヤ教の一派でサドカイ人と呼ばれる人々(一
派)がいたが、彼らは神を信じていたが、復活はないと主張していた。
(マタイ 22:23 、マルコ
12:18 )
 彼らは、国民の宗教的役人でありながら、事実は公然と非宗教的であったらしい。 
富裕で権力を持っている者が多かったという。 彼らは、死後や復活よりもこの地上での至福
を求めていたのかもしれない。 神を信じていると言っても永遠を見てはいなかったのかもしれ
ない。

しかし、聖書には、復活(=よみがえり)、永遠、死後のさばき、天の御国、地獄(永遠の火の
池)など、永遠に焦点が合わされている。

昔から人間は、この地上に生を受けてから、段々大人となって、年を重ねていくと、自然と死
後、永遠について何かしら考えていたように思われる。 そして人は、多かれ少なかれ程度の
差はあるだろうが、死の恐怖におびえてきたのではないだろうか。 

だから、死を克服するため、また死んでも行くところがあって安心したい、また死んだらどうなる
か、どこへ行くかを知って安心したいということで多くの宗教を、人はつくり出してきたのではな
いだろうか。 

「臨死体験」については、世界的に調査され、その結果、国ごとに様々な文化、宗教などの違
いはあっても、結局、死後の霊魂の存続があるということが証明された、ともう10年ほど前に
NHKで放映された。 このことは それからも今も世界で研究が進んでいるようである。 この
研究も、人が死の恐怖から逃れるための一つの表れであるのだろうか?

さて、地上での生活が最後であるというならば、なんと人の生ははかないものであろうか。 そ
して短い割には、なんと苦しみの多いところであろうか。 だから仏教の教祖といわれる釈迦
(シャカ)は、涅槃(ねはん)に入ることを目ざし、出家を説いたのである。<注;涅槃→絶対的
静寂(絶対の無の状態)。 後世になって、これでは味気ないというので、喜びがあると付加さ
れた。> しかし、今は出家などするものは見当たらない。 そして、「仏教は始めは無神論的
だったが、仏教は、後になって、多神論になり、最後には、一神論的に展開していった。」(仏
教学者 岩本裕教授の書より)という。

真言密教(混合宗教)の空海は、死に就(つ)こうとするとき弟子たちに、「悲嘆することなかれ。
われは・・・弥勒菩薩(みろくぼさつ)のそばに侍するために、入定(死ぬ)するが、56億7千万
年の後、弥勒とともに、再び地上にまみえん。」と言ったが、明らかに聖書に記されている主の
再臨の影響を受けた思考である。 

このように調べてみると仏教だけでなく、様々な宗教の教えの起源をたどれば、聖書にたどり
つく。 つまり父なる神と主イエス・キリストにたどりつくのである。 様々な方向から研究者が
調べているようである。 

★新約聖書 第一コリント人への手紙 15:16 、15:17
   もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
   そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたが
   たは今もなお、自分の罪の中にいるのです。

★新約聖書 ローマ人への手紙 14:11
  次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、
  わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」

 
●キリスト教では「信心」も重要視されるが、信仰の対象の確実性(父なる神、主イエス・キリ
ストは実際存在されること)が非常に重要視される。 それと同時に信仰の対象である神、主
が永遠に生きていることが重要視される。 仏教においては、阿弥陀仏が実在したかどうかは
重要でない。 説法の内容と「信心」の方が重要であるという。(念仏信者として著名な柳原
悦氏より)

聖書は、明らかに実在しないものを信仰の対象にすることはむなしいと言っている。 罪の問
題においても、修行してなくなるものではない。 このことについても、あの有名な親鸞(しん
らん)が残したことばに「我とて業(ごう=原罪)をもよおせば、人殺ししかねん。」とある。 ある
老僧侶は「私は、私にひどくあたる人を許そうともがいて、ゆるすことはできても、愛することな
どは不可能で、まだこの点においては到達していません。」と言った。 

しかし、あるクリスチャンの証しであるが、殺したいと思うほど憎んだ父親を、ある瞬間、ゆるす
ことができ、愛をこめて父親の顔を真正面から見て、「私は父さんを心から愛します。」と言え
る変化があったという。 これは悟りという言葉では言い表せるようなものではない。 イエス・
キリストの十字架上での死と3日目に、よみがえられた歴史的事実として現実の行為から、も
たらされるものである。

★新約聖書 マタイによる福音書 25:46
   こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるので
   す。」


●何のために死者の復活、よみがえりがあるのか。 聖書ははっきりと書いている。 
「善を行
なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるので
す。(ヨハネによる福音書 5:29 )」
 我々は、聖書が提示している方法、自分の口でイエスを
主と告白し、自分の心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じて、神の
恵みによって救われ、永遠の命へと入りたいものである。 そのために、ますます、主に祈り求
め、主のみこころに従い、主に頼っていきたいものである。

★旧約聖書 ダニエル書  12:2
    地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、
    ある者はそしりと永遠の忌みに。

★旧約聖書 伝道者の書 12:13、14
   結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが
   人間にとってすべてである。 神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、
   すべてのわざをさばかれるからだ。