めんどり聖書研究会/めんどり通信

めんどり通信/2005年7月17日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★旧約聖書 出エジプト記 31:13,14、15
   「あなたはイスラエル人に告げて言え。 あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなけれ
   ばならない。 これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなた
   がたを聖別する主であることを、あなたがたが知るためのものなのである。 
   これは、あなたがたにとって聖なるものであるから、あなたがたはこの安息を守らなけれ
   ばならない。 これを汚す者は必ず殺されなければならない。 この安息中に仕事をする
   者は、だれでも、その民から断ち切られる。
   六日間は仕事をしてもよい。 しかし、七日目は、主の聖なる全き休みの安息である。
   安息の日に仕事をする者は、だれでも殺されなければならない。

●旧約聖書の出エジプト記31章に安息についての神の命令が記されている。 聖書にはこ
の安息については、あちこちに記されている。 安息について、神の御心を知ることは、ク
リスチャンにとって重要なことである。

安息日に仕事をしてなならない、と言われる。 安息は必須なことなのである。 仕事、つまり行
ないのことである。 自分の行ないを休んで、神に働いてもらうということである。 これは、クリ
スチャンは、どうしても自分のものとしなければならない。 でないと、殺されてしまうのである。
救いに入れない、天の御国へ入れない、永遠のいのちにあずかれないということなのである。

マタイやマルコによる福音書に金持ちの青年のことが記されている。 彼は行ないをもって、天
の御国に入ろうとした。 自分の力で天国に入ろうとしていた。 確かに彼は、一生懸命、良い
行ないをしていたが、それは無理なことなのである。 天の御国は、人の力で入れるところでは
ない。 神によらなければ入れないのである。(ヨハネによる福音書6:44) 神が言われた方
法があるのである。 その方法は、安息することである。 青年の道ではなく、絶えず主に頼っ
て、主に働いてしていただかなければならない子どもの道を行くことである。 

しかし、現在、多くのキリスト教会が行ないに入って、青年の道を進んでいると思われる。 創
世記1章で6日間で天地創造があった。 主の御前では千年は一日のごとし、一日は千年のご
としと聖書にあるが、(第Uペテロ3:8) 2001年からは7日目に入った。 教会は、クリスチャ
ンは自分のわざ(行ない)をやめて、神に働いていただかなければならない時代に入っている
のである。

★新約聖書 ヘブル人への手紙 3:12〜14
   兄弟たち。 あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れ
   者がないように気をつけなさい。 
   「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくな
   にならないようにしなさい。 
   もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者と
   なるのです。

★新約聖書 ヘブル人への手紙 4:1
   こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがた
   のうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れ
   る心を持とうではありませんか。

★新約聖書 ヘブル人への手紙 4:9〜11
   したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。 
   神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざ
   を終えて休んだはずです。
   ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって
   落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。

●「自分のわざを終えて休む人」が安息に入る人である。 自分のわざを降ろし、主に働いてい
ただくと主の栄光を見る。 自分のわざを降ろすことは、わざをなされる方への信仰がある。 
逆に不信仰な者は、いつまでも自分のわざ、行ないにこだわる。 我々クリスチャンは、主に信
頼し、自分のわざを降ろし、安息、すなわち休みにはいるべきである。 

すべての人が安息に入るということを理解するわけではない。 そこの入るわけではない。 落
後者もいると聖書は言っている。 だから恐れる心を持って、熱心に安息に入ることができるよ
う求めていきたいものである。

★新約聖書 テモテへの手紙 第T 2:5
   神は唯一です。 また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリス
   ト・イエスです。