めんどり聖書研究会/めんどり通信

めんどり通信/2005年6月5日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書 ヨハネによる福音書 10:17
   あなたの神、主は、神の神。 主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。 

★新約聖書 ローマ人への手紙 2:16
   私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさば
   かれる日に、行なわれるのです。

★新約聖書 第一テサロニケ人への手紙 5:8,9
   私たちは、昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてか
   ぶって、慎み深くしていきましょう。 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになった
   のではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。

●神は一つの計画をたてられた。 この計画を神の経綸(けいりん)と言う。 神の経綸は人に
対する神の全般的計画である。 神は、人を救おうと、計画をたてられた。 何故、人は救われ
なければならないのか。 それは、神ご自身は、義であられるゆえに、不義を赦(ゆる)せず、
聖であられるゆえに、罪を憎まれる方で、罪を罰せずにはおかれない方であるから、アダム以
来のすべての罪人を裁かれるからである。 
この裁きから人を救おうという、壮大な神の計画が、神ご自身の御手によってたてられた。 

神が最初の人、アダムとエバを造られたとき、罪は彼らの中にはなかった。 神は霊であられ
たが、人をご自身のかたちに造られたと聖書に書いている。「神は言われた、「われわれに似
るように、われわれのかたちに、人を造ろう。(創世記1:26前半)」
 だから、本当は人は、神
の器なのである。 神を入れる器として造られたのである。

しかし、たった一つの簡単な神の戒め、「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよ
い。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あ
なたは必ず死ぬ。(創世記2:16,17)」
を彼らの自由意志で破り、悪魔が差し出した神の命令
と正反対のことば、善悪を知る木から取って食べても死なない、という提案受け入れたとき、人
は堕落した罪人になりさがってしまい、死ぬものとなった。

人は自ら救うことができない。 罪を犯すことから離脱するために、昔から人々は様々な取り組
みを行ってきた。 善行、教育、道徳、読経、仏像など何かを拝む・・・。しかし、成功しなかっ
た。

★新約聖書 コロサイ人への手紙 2:9
   キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。

★新約聖書 ヨハネによる福音書 1:1,14
   初めに、ことばがあった。 ことばは神とともにあった。 ことばは神であった。
   ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

●神は、キリストをこの世に遣わしてくださった。 キリストは三位一体(さんみいったい)の神
(父、子、聖霊)の具体的表現である。 ゆえにキリスト・イエスは、神であられ、完全な人であら
れる。 キリストは、十字架で私たちの身代わりとなり、死んでくださることにより罪を処分され
た。 また、人の敵であった死をも滅ぼされた。 そして、主を真に信じる者たちを永遠に生か
すために3日目によみがえられた。 

★新約聖書 ローマ人への手紙 3:23,24
   すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵によ
   り、キリスト・イエスによる贖(あがな)いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

★新約聖書 ローマ人への手紙 4:25
   主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえ
   られたからです。

●昔から「罰(ばち)が当たる」というが、まさに人が救われない罪人のままであるなら、最後に
、神のさばきのときに「罰(ばち)が当たる」のである。 途中の「罰(ばち)が当たる」などは、
最終の時に比べれば、些細(ささい)なものであろう。 

キリスト教は、昔からこの神のさばきを知らせて、そして、そこから救われるようにと、福音を伝
えてきたはずである。 過去の多くの殉教者(じゅんきょうしゃ)たちは、このことのゆえに、目の
前の体の死など恐れなかった。 永遠があることを信じ、神のさばきから逃れることができるた
めに、私たちの身代わりになってくださった主イエス・キリストを信じ、愛して、死んでいったの
である。 だから聖書は、真のクリスチャンの死に対しては、眠っていると書いているのである。 
眠った者は起き上がる時がある。 

しかし、昨今、キリスト教会は変わってきた。 このさばきを言わなくなった。 神は愛である、
だけを強調して、耳ざわりのいい話しをしている。 事実、カトリックでは地獄はない、さばきは
ない、などと冒涜的なことを教えているらしい。 それに続けといわんばかりのプロテスタントの
教会もでてきているというから、嘆かわしいことである。

確かに、神は愛である。 神の方から、我々人を救おうと計画を立ててくださり、キリストを遣わ
してくださったのだから。 しかし、愛であると同時に義なる方であられる。 ゆえに、不義はゆ
るされず、罪を憎み、罪人の責任を問われる。 悔い改めない(主のもとに立ち返らない)罪人
を罰するのは、神が義であられるからである。 

神の愛と神の義は、モーセの十戒の石板の表裏のように、一つとなっていることを、多くのクリ
スチャンがわかっていない。 だから、神のさばきなど言うと、おどかしみたいに思われて、言え
なくなってしまう。 そんなとき、うまい具合に、京都の逮捕された教会の牧師の記事がでると、
やはり、おどかしはいけないとばかり、別の路線を話す。 まったくサタンの思う壺である。 
人の言うことを伝えるのではない。 真のクリスチャンは、聖書のことば、すなわち、神、主イエ
ス・キリストの言われることを伝えるのである。 

私たちは知っておかねばならない。 神は、主は、愛であるとともに、義であられるお方。 あわ
れみ深いお方であるとともに、恐れるべきお方であるということを。 この神が、私たちを真に
救おうと今も、人に呼びかけているのである。 私たちは どうこたえるだろうか。

★新約聖書 ローマ人への手紙 2:5〜8
   ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神
   の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。 神は、
   ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。 忍耐をもって善を行
   ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、
   真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。