めんどり聖書研究会/めんどり通信

めんどり通信/2005年6月19日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書 ヨハネによる福音書 3:5
   イエスは答えられた。 「まことに、まことに、あなたに告げます。 人は、水と御霊(みた
   ま)によって生まれなければ、神の国に入ることができません。 

★旧約聖書 詩篇 29:2
   御名(みな)の栄光を、主に帰せよ。 聖なる飾り物を着けて主にひれ伏せ。

●マタイの22章にこんなことが書かれている。 王子の婚礼のとき、ひとりの礼服を着ていな
い者が、王から「どうして礼服を着ていないのか。」と尋ねられたが、彼は黙っていた。 そこ
で、王はしもべたちに『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりす
るのだ。』と言ったという。 

この礼服に相当することばは、マタイ17章でペテロ、ヤコブ、ヨハネの目の前で、イエスの御衣
が光のように白くなったという、主の衣に関して使われた同じ原語が使われているという。 主
の衣が義をさすとするなら、この婚礼の席から追い出された者は「義の衣」を着ていなかったと
いうことである。 そして、それが問題なのである。

★旧約聖書 出エジプト記 28:4
   彼らが作らなければならない装束(しょうぞく)は次のとおりである。・・・・彼らは、あなたの
   兄弟アロンとその子らに、わたしのために祭司の務めをさせるため、この聖なる装束を作
   らねばならない。

★旧約聖書 出エジプト記 28:43
   アロンとその子らは、会見の天幕にはいるとき、あるいは聖所で務めを行なうために祭壇
   に近づくとき、これを着る。 彼らが咎(とが)を負って、死なないためである。これは、彼と
   彼の後の子孫とのための永遠のおきてである。

●出エジプト記28章は祭服について書かれている。 聖書の中に出てくる人物を通して、キリ
ストの様々な面を型として書かれているが、アロンは祭司の型である。 キリストは大祭司であ
るが、クリスチャンは神の前に仕える祭司としての役をしていく。 祭司としての務め(奉仕)は、
香をささげる=祈り、パンの供え物をささげる=正しいメッセージをしていく(正しい御言葉を語
る)ことである。 祭司の務めをなす時、祭服を着なければならないと聖書に書かれている。

神の前に裸で出たら死ぬのである。 すべての人は皆、罪人である。 神は、人の内側には善
なるものが何もないと書いている。(詩篇53章) だから、神の前に生まれつきのままの性格、
性質で出たら神にさばかれるのである。 クリスチャン生活は、神によって神に与えられた衣を
着ていくということである。 神が与えてくださる衣は、義の衣である。 我々は、神から様々な
良いものを与えられる。 たとえば、愛、柔和、寛容、親切、誠実、忍耐・・・などという衣であ
る。

クリスチャン生活の一面は、美しい衣装を着ていく、縫っては着ていくような歩みである。 聖霊
によって良いものが与えられ、義の衣を毎日々、縫っていくようなものである。 一生かけて、
その衣を編んでいくのである。 そうすると、裸が見えなくなる。 

クリスチャンになったということは、キリストによって新しく生まれたことであるから、その後、衣
を着ていくのだが、その衣は上からの聖霊の衣(義の衣)を着ていかねばならない。 婚礼の
席(キリストとの結婚、神の前に出る日)に、せっかく出席しても、義の衣でない衣を着ていた客
は、外の暗やみに追い出された。 神の前に裸でもダメだが、義の衣以外の衣でもダメなので
ある。 聖霊によって義の衣を与えられて、着ていくには、素直に神の前にへりくだっていただく
必要がある。 神の前にへりくだるのに、邪魔するものが、エデンの園でアダムとエバが、神が
取って食べてはならない、きっと死ぬからと命じられた善悪の知識の木の実を食べてしまったと
きに、人のうちに入ってきた罪であり、生まれつきの知恵であり、自我である。 

しかし、主イエス・キリストによりすがり、神の前にへりくだり、自分を捨てていく者に、主は必
ず、その人を砕き、上からの義の衣を与えてくださる。 クリスチャンは本来、義の衣を着るよう
に召されているのである。 

★新約聖書 ヨハネの黙示録 3:18
   わたしはあなたに忠告する。 豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買
   いなさい。 また、あなたの裸(はだか)の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさ
   い。 また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。

★新約聖書 ヨハネの黙示録 22:14
   自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれ
   るようになる者は、幸いである。