めんどり聖書研究会/めんどり通信

めんどり通信/2005年5月15日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書 マタイによる福音書 12:39
   しかし、イエスは答えて言われた。「「悪い、姦淫の時代は、しるしを求めています。だが預
   言者ヨナのしるしのほかには、与えられません。」(マルコ8;12も同様)

★新約聖書 マルコによる福音書 8:15
   そのとき、イエスは彼らに(弟子たち)命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパ
   ン種とに十分気をつけなさい。」

マルコによる福音書の8章に、7つのパンと少しの魚で男だけでも4千人を食べさせた奇跡
が記されてあり、6章では5つのパンと2匹の魚で、男だけでも5千人を食べさせた奇跡が記
されている。 その後、パリサイ人たち(当時、宗教団体のうちで最も多勢で権力と勢力のあ
る人々)たちがやって来て、イエスに天からのしるし(奇跡)を求めた。 主は深く嘆息され、しる
しは与えられませんと言われた。 そして弟子たちには、パリサイ人たちのパン種に気をつけ
るよう命じておられる。 パリサイ人のパン種=教えと教理のことである。 

人は奇跡やしるしや不思議という事がらに案外弱いものである。 だから いろいろ求めて走り
回る。 一度でも、奇跡や不思議があらわれたなら、もうその人や物を、後生大事にするばか
りか、神として祭り上げる。 命の恩人、人生の恩人以上に神として祭り上げる。 

そういう人間の弱さと身勝手さ、貪欲さをご存知の主は、十戒で筆頭に
※あなたは、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。  二番目に
※あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。 それらを拝んではならない。
(出エジプト記20章)
と言われたのかもしれない。 

キリスト教会とて同じことである。 今のキリスト教会の様々な運動は、しるしと不思議と奇跡
を強調して、大々的に宣伝している。  これらはとても神から来ているものとは言えない、むし
ろ悪霊からのものと言えるのだが、多くの世界中の教会、クリスチャンが、その集会に、わんさ
かと押し寄せている。 主の深い嘆息が聞こえるようである。 

斯く言う私も、以前所属していた教会が、そのようなムーブメントに参加、私も集会に参加した
ことがある。 その集会で多くの人が、今いやされたと、壇上にあがってあかしをしていたが、
本当なのかな?と思ったものだ。 そして、いやされていることは良いこととは思うが、この
人たちの後の信仰はどうなのか?本当に主に従っていくのだろうか?などと思ったものだ。 
主への信仰や永遠のいのちよりも、いやしや奇跡などが強調されていると感じたからだ。 
当時は、そんな思いや疑問は出てくる自分の方が間違っていると思い込んでいた(そのよう
に教えられていた)ので、当時は気づかなかったが、その教会を出てから、主が教えてくだ
さった。

結局、クリスチャン、牧師、指導者と言えども、目に見える奇跡やしるし、不思議に心を奪われ
て、本来、聖書が言っている、永遠のいのちから焦点がはずされてしまっている。 主イエス
への信仰、信仰と言いながら、結局、自分のことだけに目が留まってしまっている。

もちろん、主は自分のことを求めてはならない、などとは言われていない。 むしろ、求めよ、与
えられるからと言われてはいる。 しかし、神が我々に与えようとして下さっている、最大、最良
のものは、『永遠のいのち』なのである。 

イエス・キリストは我々の罪のために十字架にかかられ、3日目によみがえられて今も生きてお
られる。 そして、主イエス・キリストを信じ、従っていく者に『永遠のいのち』を与えて下さるとい
う約束である。 昔からキリスト教は、このことを伝えてきたはずなのであるが、昨今のキリスト
教はすっかり変質してきているようである。 

特に、昨今、アメリカから出てくるキリスト教の教理には、聖書から甚だ逸脱したものばかりが、
出てきているが、日本はアメリカ依存症なのか、日本のキリスト教の有名な多くの指導者やク
リスチャンたちが、それらに喜んで同調している。 何とも嘆かわしいことである。 

ヘロデのパン種。 ヘロデは当時ユダヤの王だったが、血筋においてはダビデと関係がない。
神はダビデに、彼の子孫がとこしえに王座に着くという約束を与えておられた。 これはたとえ
で、今、キリスト教のトップは、どうもキリストと関係のない人たちがなっている。 キリストが
言われなかったことを主張していくなら、聖書に書かれていることと違うことを強調するなら、
もはやそれは、多くのクリスチャンたちがいのちがけで昔から伝えてきたキリスト教とは違う。

・クリスチャンにとっては艱難はない、その時には天に挙げられているからという。←聖書と違う
・エキュメニカル運動(カトリックもプロテスタントも、互いの教理の違いには目をつむって一つ
 になろう←聖書とは違う
・フェミニスト神学(女性蔑視、差別はいけない。聖書の神の子は英語で言うならson(息子)と
 なっているから、child(こども、男性、女性を含む)に変えよう←聖書と違う、神のことばを冒
 涜するものである。
・エコロジー神学、・可能性思考、・命の門は広い←みことばに逆らっている。等など。

★新約聖書 ヘブル人への手紙 11:1
   信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

★新約聖書 第二コリント人への手紙 5:18
   私たちは、目に見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一
   時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

●我々は、人を信じるのではなく、主イエス・キリストを信じ、人に従っていくのではなく、真理な
る主イエス・キリストに従っていき、永遠のいのちを獲得したいものである。 そのため、聖書で
主が語っておられる御言葉を、ないがしろにすることのないように、絶えず主イエスに祈って、
主の御心を知り、惑わされないようにしたいものである。 主によりすがる者を主は守って下
さる。

★新約聖書 第一テモテ人への手紙 6:3〜5
   違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意
   しない人がいるなら、その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことば
   の争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の
   疑りが生じ、また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段
   と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。

★新約聖書 ヨハネによる福音書 14:6
   イエスは彼に答えて言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたし
   を通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません