めんどり聖書研究会/めんどり通信

めんどり通信/2005年3月27日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★旧約聖書 創世記 47;29〜31
   イスラエル(ヤコブ)に死ぬべき日が近づいたとき、その子ヨセフを呼び寄せて言った。 
   「もしあなたの心にかなうなら、どうかあなたの手を私のももの下にいれ、私に愛と真実
   を尽くしてくれ。 どうか私をエジプトの地に葬らないでくれ。 私が先祖たちとともに眠りに
   ついたなら、私をエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってくれ。」するとヨセフは
   言った。 「私はきっと、あなたの言われたとおりにいたします。」・・・・イスラエルは床に
   寝たまま、おじぎをした。

★新約聖書 ヘブル人への手紙 13;14
   私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都
   求めているのです。

●創世記のここでは、イスラエル(ヤコブ)の臨終近きときの様子が記されているが、ヤコブの
ように年老いて、死ぬ準備ができていた者は幸いである。 昔はよほどの不慮の事故がない限
り、また若干の例外はあったとしても、だいたい死ぬのは年の順となっていた。 しかし、昨今
どうも、この定義があてはまらなくなってきた。 我々の生活が便利に豊かになってきたが、成
人病は今や、子どもでもかかるようになってきた。医学はどんどん発達してきているのだが、癌
やら心臓系の病・・・などの病になる人も多くなってきたように思える。 その上、殺人、交通事
故、災害による死亡・・・。 どうも年の順定義は通用しない世の中になっているようである。  

聖書(神のことば)はいつの時代にも人に語りかけるものがある。 こんな時代だからこそ我々
は、主の御心を悟らねばならない時が来たと思われる。 どんな年代の者であれ、人としてこ
の地上に生まれたからには、自分ために、死ぬ準備が必要であるということを語っているよう
に思われる。 ヤコブが墓にこだわったのは、死んだ後、どこへ行くのかということにこだわっ
たのであり、永遠のいのちを得ることにこだわったのである。

人は、人の前でどうであるかではなく、神の前でどうであるかが重要である。 そして、後の
世でどうであるかが重要ポイントである。 この地上生活は、旅人としての生活なのである。 
 この地上生活で何をするのもよし、しかし、死ぬ準備がなされているかが、重要なのであ
る。 死ぬ準備と言っても、葬式はどうするのか、後のことはどうするのかということだけが
死ぬ準備ではない。

この地上生活を、どこに最終目標をおいて生きるのかということである。 神、主イエスに
心を向け、永遠を見据えて生きていくことを最終目標にして生きていくことが、聖書が言う死ぬ
準備をすることである。 永遠のいのちを得ることにこだわることである。 考えてみても、この
地上での生活は、たかだか百年(百年生きれる人は、そうざらにはいないが)。 ヤコブの先祖
たちもヤコブも、後の世界について大きなポイントを置いていた。 これが、真のクリスチャンの
こだわるべきところである。

★新約聖書 ヨハネによる福音書 17;16
   わたし(イエス)がこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。

★新約聖書 ヨハネによる福音書 18;36、37
   イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。」・・・イエスは答えられ
   た。 「わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。
   真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」

●主イエスも、この地上生活を最終目標にするのではなく、ご自身の国があることを仰せられ
ている。天の御国(天国)、つまり天の父なる神、主イエス・キリストがおられるところが真の天
国なのである。

★新約聖書 第二テモテ 3;7,8
   私は勇敢な戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。 今からは、義の栄
   冠が私のために用意されているだけです。 かの日には、正しい審判者である主が、それ
   を私に授けてくださるのです。 わたしだけでなく、主の現われを慕っている者には、だれ
   でも授けてくださるのです。

●パウロは、殉教する前、このように(上記御言葉)言うことができた。 主の再臨前に、この地
上生活が終わる場合には、パウロのように言えるようになっておきたいものである。 これが、
死ぬ準備ができた人の言葉であろう。