めんどり聖書研究会/めんどり通信

めんどり通信/2005年3月13日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書 マルコによる福音書 6;12,13
   こうして12人が出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し大ぜいの病人に油
   を塗っていやした。

★新約聖書 第一コリント 1;8
   十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神
   の力です。

★新約聖書 第二コリント 5;10
   なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ、悪であれ、各自その
   肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

●聖書が‘偽り’‘真理’ということばを使う時、この世の未信者の人を対象に語るというより、ク
リスチャンに焦点をあてて書いている。 すなわち、イエスを信じた者の中にこそ、偽りが入る
ので、聖書で様々なたとえをもって、警告しているのである。 未信者は、悪魔から見たら、す
でにだまされているので、とりたてて偽りを入れる必要がないのかもしれない。 しかし、敵は、
麦の中に毒麦をまくことを願っている。 すなわち、神の民の中に、偽りを入れることに力を尽く
している。

★新約聖書 ヨハネによる福音書 8;30
   もしあなたがたが、わたし(キリスト)のことばに とどまるなら、あなたがたはほんとうに、
   わたしの弟子です。

★新約聖書 ヨハネによる福音書 8;12
   イエスはまた彼らに言われた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中
   を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

ヨハネ8;30が同じイエスを信じた人々の中に真理、偽りという大きな区分をもたらす。 自
分はクリスチャンなのだから、自由なはずだ、と言いながら、実際は他のものの奴隷になって
いるという人は結構いるが、その人は、主が言われる本当の自由は持っていない。

終末の日は、多くのつまずきが起きてくる日であり、光のない人は皆、つまずいていく。 このこ
とは主イエスの時代にあった。 常識や聖書知識やこの世の知識には欠けるところのなかった
パリサイ人や律法学者たちが見事につまずいた。 今後、終末の多くの出来事は真の光(キリ
スト)を求めない人々のつまずきとなると思われる。

本来、つまずきなるものは、我々人の心の内に潜んでいるものかもしれない。 偽りがきた時
に、それに応答して、だまされてしまうこと自体、その証拠といえるかもしれない。 だからこそ、
人は罪人なのである。 罪人と自覚のある者が、主イエスのところに来る。 罪の結果は死、つ
まり滅びであると聖書は言っている。 人がそのままの状態で、神の御前に立った時、誰一人
として合格する者はいない。 さばきと言うとき、我々人の考え、思い、善悪の基準ではなく、神
の基準なのである。 人は外側を見、神は心の内を見られるとあるが、果たして、人の一生の
全ての心の中のものを、さらけ出された時、言い訳できるものはどれだけあるだろうか。 
だからこそ、今地上にいる間に、キリストの十字架を受け入れ、罪を覆って下さる主イエス・キ
リストにしっかりと結びついておくことが重要である。 

★新約聖書 ヨハネによる福音書 3;16
   神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。 それは御子を信じる
   者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

●このキリストは、3日目に復活されて、今も生きておられる。 しかし、クリスチャンと言われる
者が、ことばでは主を信じていても、罪の奴隷であるものには、さばきがある。 また、イエスを
信じながら、悪魔を父とすることがある。 イエスを信じていると言いながら、他のものを信じ、
よりすがっている(カトッリクのマリヤ崇拝、ローマ法王崇拝、仏教、ヒンズー教、この世の良い
教え、心理学、等など)なら、そのような者に、主は「悪魔を父としている。」と言われる。 その
ような者は、結局、いざとなったら、いつでも主を裏切るし、サタンの方に寝返るのである。 聖
書には、そのことについても事例が記されている。 

★新約聖書 ピリピ 3;18,19
   というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多く
   の人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。 彼らの最後は滅びです。
   彼らの神は、彼らの欲望であり、彼らの栄光は、彼ら自身の恥なのです。 彼の思いは
   地上のことだけです。

黙示録やエゼキエル書、ダニエル書、エレミヤ書、ホセア書、マタイ・・・等など、聖書の各所
で、終末にはキリスト教会、クリスチャンが変質して、神にさばかれることが、たとえをもって記
されている。 さばきが下るのは未信者、世だけではないのである。 考えられないことかもし
れないが、そういう時代になってしまった。 どんなに名声のある牧師、教師、指導者のことば
であったとしても、もし聖書のことばと違うならば、我々は、神のことばをとって、主イエス・キリ
スト様に従っていきたいものである。 しっかり聖書を読んで、しっかり祈っていることが、惑わ
されない秘訣である。