めんどり聖書研究会/めんどり通信

めんどり通信/2005年12月11日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書  第一コリント人への手紙 7:31
   世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。

★新約聖書 マタイによる福音書 13:35
   それは、預言者を通して言われた事が成就するためであった。「わたしはたとえ話をもっ
   て口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう。」

●聖書は、歴史書、詩書、預言書、福音書、使途の働き、手紙、黙示録が記されている。 聖
書は神の霊感によって書かれたものであり、その著者は神である。 聖書は神のことばだか
ら、その字句通りに解釈しなければならないと、ずっと教会で言われてきた。 しかし、エゼキエ
ル書やダニエル書、黙示録など字句通りに解釈すると明らかに変だと思われる箇所も多い。 

また、字句どおり訳せるが、たとえを含んでいる箇所が多い。 第一義的な意味あい(字句どお
りの意味)だけでなく、第二義的な意味あいをふくむ、たとえの部分が、実は神がいわんとして
おられる、神のみこころ、奥義が隠されているという箇所が多い。

イエス様も多くたとえをもって話された。 そして、弟子にはたとえを理解することを望まれた。

★新約聖書 マルコ による福音書 4:2
   イエスはたとえによって多くのことを教えられた。

★新約聖書 マルコ による福音書 4:13
   そして彼らにこう言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいど
   うしてたとえの理解ができましょう。

●旧約聖書のレビ記11章には、神が動物や魚、鳥のたとえをもって、クリスチャンがどんなク
リスチャンとなるべきか、またどんなクリスチャンと交わるべきかが書かれている。 食べる、飲
むということは、パン(みことば、メッセージ)を食べる、ぶどう酒(聖霊)を飲むということに関係
している。 レビ記 11:3には、「動物のうちで、ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れてい
るもの、また、反芻するものはすべて、食べてもよい。」と記されている。 

ひづめが分かれていることと、反芻するもの、この2つの条件を満たす動物はきよいという。
どちらかの一つだけの条件では汚れたものだから食べてはならないという。 「反芻(はんすう)
するもの」とは、たとえば牛は胃が4つあり、食べたものが第一の胃に入り、また口に戻って、
次は第二の胃→口→第三の胃→口→第四の胃・・・と牛は絶えず口をもぐもぐ動かしている。
このことから、神はみことばを絶えず食べる、つまり、みことばを繰り返し繰り返し読む者のこと
を言っている。

 聖書を神のみことばと信じて、ある程度の数を読んでくると、思考パターンが聖書のみことば
に近づいてくる。 思いが変えられてくる。 きよくなってくるのである。 

また、「ひづめが分かれている」とは、この世から分離されていることである。 いくら聖書を読
んでいても、この世と分離されていなければ、汚れているといわれる。 この世の王はサタン
(悪魔)であり、様々な誘惑をもって人を滅びに向かわそうとするゆえ、クリスチャンのこの世か
の分離を神は言われるのである。 人が救われたのは、邪悪なこの世からであると聖書に書
かれている。 キリストは我々を、この世から救い出すために、十字架で我々の身代わりにな
って死んでくださったのである。

★新約聖書  第二コリント人への手紙 4:4
   そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光
   にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

★新約聖書 ガラテヤ人への手紙 1:4
   キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身を
   お捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。

●レビ記11章では、この2つの条件を満たさない動物で豚が書かれているが、現実に、ユダ
ヤ教徒やイスラム教徒は、豚を食べないことは有名である。 彼らは、この聖書の箇所から豚
は汚れているからと食べない。 しかし、何度も言うように、字句どおりに従っていくべきところ
よりも、本来、神がいわんとしていることは、たとえとして書かれているのでる。 聖書を読む
ときにそのことを踏まえて、主に祈りながら、聖霊に導かれて読む者には、神は、必ず、教えて
くださる。

よい行ないをしているから大丈夫、イエス・キリストを信じているから大丈夫、日曜礼拝へまじめ
に行っているから大丈夫(確かに、それは大切なことであるが)、だからさばきとは無縁である
などと有名な指導者が言おうと信仰暦の長いクリスチャンが言おうと、敬虔深い牧師が言おう
と聖書には、そんなことなど一切書かれていない。 むしろ、汚れから出てこなければ、この世
から分離されなければ、さばかれると書いてある。 終末の教会、クリスチャンは目をさまさな
ければ、世とともにさばかれてしまうのである。 クリスチャンといえども、神から見られてクリス
チャン(キリストに従う者、キリストにある者)でなければ、クリスチャンとは言えないのである。

聖書は牧師や教師が解釈したものを聞けばいいなどというクリスチャンは、結局、反芻しない
者であると聖書は言う。 もし、解釈した牧師や教師が間違った(主のいわんとしていない)解
釈をしていたら、どうするのか。 聖書にははっきり、終末には、牧師、教師が間違う時代が来
るとあちこちに書かれているのである。 そして、現在、そのみことばが、成就され始めている
ことを見ることができる。 聖書にはちゃんと警告として書いてあるのだから、いずれ、この地上
での生活が終わって神の前に立ったときに、知らなかったではすまないのである。

聖書を神のことばと信じ、主のみこころを求める思いで、祈りをもって、繰り返し繰り返し読み、
汚れから出るために、この世からの分離を、主に祈り求めていく者に、神は必ず、そのとおり
にしてくださる。 祈りのたびに聖霊が触れてくださるからである。 下記のみことばが我々の
上に成就していただけるよう求めていきたいものである。 そして、この不穏な邪悪な世の
中にあって、キリストの光をもって輝きたいものである。

★新約聖書 ピリピ人への手紙 2:15,16
     それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な
    世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、
    いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。・・・