めんどり聖書研究会/めんどり通信

めんどり通信/2005年11月20日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書 ヘブル人への手紙 9:27
   そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

★新約聖書 ローマ人への手紙 10:11
   聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

ルカによる福音書16章に、イエス様が話されたたとえで、金持ちと貧乏人ラザロについて記
されている。 ある金持ちがいて、毎日、ぜいたくに遊び暮らしていた。 一方、ラザロという全
身おできだらけの貧乏人が、金持ちの門前で体を横たえていた。 犬が彼のおできをなめに来
ても、追い払いもできず、なめられるままの状態であった。 

ある日、ラザロは死んだ。 彼は神によりアブラハム(=神)のふところに連れて行かれた。 つ
まり天国である。 同じ頃、金持ちも死んだ。 その金持ちは、ハデス(地獄の意)で苦しみなが
ら目を上げた。 するとアブラハムのふところに抱かれたラザロが、はるかかなたに見えた。 
彼は、あまりの苦しさに叫んで言った。 「父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロ
が指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦
しくてたまりません。」
と。 

アブラハムは、「・・思い出してみなさい。 おまえは生きている間・・・、そればかりでなく、私た
ちとおまえたちの間には、大きな淵(ふち)があって、こちらから行くことも、そちらから越えて来
ることもできない」
と言った。 すると、金持ちは、「ラザロを(生き返らせて)私の家に送ってくだ
さい。 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、
よく言い聞かせてください。」
と言うと、アブラハムは、彼らにはモーセと預言者がある。 つまり
聖書があるから、その言うことを聞くべきと答えた。 

★新約聖書 ルカによる福音書 12:58,59
   あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するよ
   う努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行きます。裁判
   官は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまいます。
   あなたに言います。最後の一レプタを支払うまでは、そこから決して出られないのです。

●金持ちは、「もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改
めるに違いありません。」
と頼んだが、アブラハムの答えは「もしモーセと預言者との教え(=
聖書)に耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れは
しない。」
ということだった。 この話しは ここで終わっている。 この金持ちはどうなったか、
最後の一レプタを支払うまでは、そこから決して出られなかったとある。 地獄から出られなか
ったということであろう。

また聖書は多くをたとえで書かれている。 金持ち、貧乏人というのも確かに、実際のお金に
関することも含まれていると思うが、神がいわんとしておられることは、金持ちとは能力的に何
でもできる、神に頼らなくても、行ないにも富んでいるというような人々のことを言う。 貧乏人
とは、幼子に通じるところがあり、自分ひとりでは進むこともできず、親(=主)に頼らなければ
何もできないというような人々のことであろうと思われる。 

クリスチャンの基本は、何でも主に尋ねる、何でも主に頼るということである。 主に求める者
に神は、ご自身のみこころを教えてくださり、恵みと祝福の中へと入れてくださるのである。

死後のことは、我々生きている者にとって未知の世界のことであるが、ここではたとえをもって
その様子が書かれている。 知らなかった、聞いてなかったではすまない実情がそこには書か
れている。 我々は聖書は読もうと思えば、いつでも読める。 ただ、この聖書をどのような位
置にとらえているかが、その人の後の運命を決めてしまうと言っても決して過言ではない。 
聖書は、神のことばである。 また、ヨハネ1章1節に「ことばは神であった」とある。 

『彼らには、モーセと預言者(=聖書)があります。その言うことを聞くべきです。』(ルカ16:2
9)
と言うことばを厳粛(げんしゅく)に受け止めねばならない。 また『もしモーセと預言者との
教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはし
ない。』(ルカ16:31)
ということばも、心して厳粛に受け止めなければならないであろう。

★新約聖書 第二テモテへの手紙 4:7
   私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

●一度、主イエス・キリストにより救われたから、それでもう大丈夫、罪を犯していたとしても、
自分独自の生き方をしたとしても(生まれ持った性質のまま)、神は愛だから許して下さる、
一度得た救いは失うことなどないなどとキリスト教会の有名な伝道師、牧師が言ったとしても、
聖書には、そんなことは書いていない。 むしろ、「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者
がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいる
のです。(マタイ 7:21 )
と記されている。 

最後まで、主イエス・キリスト様に頼り続けた幼子のようなクリスチャンが、さばきを過ぎ越され
るのである。 やがて神の前に立ったとき、さばきを過ぎ越されて、すばらしい報い、永遠の命
を受けたいものである。 

★新約聖書 ヘブル人への手紙 3:14
   もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者と
   なるのです。