めんどり聖書研究会/めんどり通信

めんどり通信/2005年10月9日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書 ヤコブの手紙 4:4
   貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。
   世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。

★新約聖書 第一ヨハネの手紙 2:15
   世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人
   のうちに御父を愛する愛はありません。

●上記の御言葉は、神がクリスチャンに対して言われたものである。 クリスチャンとは、ギリ
シャ語でキリストに従う者という意味である。 神の子が、この世を愛して、それを教会に、クリ
スチャン自身に取り入れることには、神の御心がない。 

聖書では「この世」を「エジプト」という表現で語っている。 旧約聖書に神が、モーセによって神
の民を出エジプトさせた話しが記されているが、それは終末の日の型として神が我々に警告を
与えておられる。 この世化した教会からは、神の民(クリスチャン)は、出て来て、この世のあ
らゆる汚れや惑わしから逃れて来なさい、と言っておられるのである。

また、創世記12章には、アブラム(アブラハム)とサライ(サラ)が、ききんのためエジプトへ
下って行ったことが記されている。 エジプトでサライは、エジプトの王として召し入れられてし
まった。 それゆえ、主は「パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。」(創世記12:17)とあ
る。 当時、サライはとても美しい女だった。 

女、妻は、キリストの花嫁、妻としてのたとえだが、教会も神の前、またこの世にとっても美し
い、魅力的なもの、清いものであると思われていた。 この世は、教会の美徳、道徳、貞潔、
信仰を優れたものとして、人間的な基準に沿って、その美しさほめてきたと思われる。 キリス
ト教や教会の歴史は、西洋の美術、演芸、文学、音楽の中核をなしてきたと言えるであろう。 

しかし、長い歴史の間に、教会、キリスト教は人間の基準や標準の見方が、教会、キリスト教
の中に浸透してきてしまった。 イエスの時代からそのことについては聖書で警告が与えられ
ていたが、時代が進むにつれて、浸透の度合が広く、深くなり、キリスト教は聖書が言うことか
ら甚だしく逸脱(いつだつ)してしまったようである。 

多くのクリスチャンが、ききんのゆえ、すなわち、神のパン(=み言葉、メッセージ)、水(=聖
霊)に飢えるため、この世のものを求めることがあるようだが、基本的には、エジプト、この世に
下ることは、神のみこころではない。 主は教会がこの世の妻となることを決して望んではいな
い。 そうなるなら、むしろそれゆえに、ひどい災害が臨むと言っている。 

だが、多くの教会では、もうすでに、この世が入り込んでいる。 心理学、多くの学問、この世の
知識、方法が入り込んでいる。 このような教会や、クリスチャンを聖書は「エジプトにいる」と
言っている。 また、このまま、この世に住み続けるなら、それはもはや、クリスチャンとは言え
ず「エジプト人」(=キリストとは関係ないこの世人)と聖書は言っている。 

★新約聖書 ヨハネによる福音書 3:5
   イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生
   まれなければ、神の国にはいることができません。

●今や、教会とこの世の境がわからなくなったばかりか、教会がこの世の妻となった状態、つ
まり一致しているかのような教会が多い。 さらに、その結びつきを深めようとする働きが、世
界中で多くあらわれてきた。 この世に住み続けること、つまりこの世の基準、標準などこの世
のものを取り入れることは、キリストを殺すことでもある。 クリスチャンにとって、最も大切なこ
と、つまり*聖霊に触れること、*キリストによる新生をすること、がこの世のものにとってかわら
れる、つまり抹殺されることである。 

出エジプトは、神が変質してしまった、この世化した教会を裁くから、出て来なさいとの神の命
令であり、警告なのである。 そこから出てくることに神の御心があり、出エジプトした者に与え
られるのが、天の御国、永遠のいのちである。 

★新約聖書 ヨハネによる福音書 1:12
    しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとさ
   れる特権をお与えになった。

★新約聖書 ヘブル人への手紙 9:26,27
   ・・しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除く
   ために、来られたのです。
   そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている・・

●我々は皆、罪人である。 人間には肉体の終焉がある。 しかし、すべての人には、地上の
事柄を必ず神の前で清算する時が必ず来る。 人が信じる信じないに関係なく、認める認めな
いに関係なく、神の基準での清算がある。 クリスチャンであろうがなかろうが清算は、必ず
ある。 

聖書では人は神に対してお金に換算するならば、(本当は換算などできないが、我々にわかり
やすく教えるための神の知恵であり、配慮である)ひとり1万タラント、日本円で6兆円の借金を
していると記されている。 借金は基本的には返さなければならないものである。

 しかし、イエス・キリストは我々のために、その借金を十字架の身代わりの死というかたちで
払ってくださった。 そして、その人が永遠に生きることができるために、3日目によみがえって
今も生きておられる。 肉眼では見えないが、キリストは求める者には実際となり実感となってく
ださる。 まだ、罪の清算をしていない者は、主イエス・キリストを信じて神の子となる特権を与
えられるようにと神は仰せられる。 また、神の子になったと思われる者でも、出エジプトをして
真の神の子となるようにと神は仰せられる。 いずれにしても、今、クリスチャンであろうがなか
ろうが、結局、出エジプトすることである。

★新約聖書 第一ペテロの手紙 1:3
   私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大
   きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私
   たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。

★新約聖書 ローマ人への手紙 4:25
   主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえ
   られたからです。

★新約聖書 ヨハネによる福音書 3:16
   神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる
   者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。