めんどり聖書研究会/めんどり通信

めんどり通信/2005年10月2日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書 マルコによる福音書 6:42,43
   人々はみな、食べて満腹した。  そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚
   の残りも取り集めた。

★新約聖書 マタイによる福音書 4:4
   イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一
    つのことばによる。』と書いてある。」

●マルコ6章、マタイ14章に、5千人の給食についての記述がある。 5つのパンと2匹の魚を
主イエスが祝福されて、弟子たちに渡し、弟子たちから群衆に渡して、男だけで5千人も食べた
という話しである。 その場にいたのは、男だけでなかったから、女、子どもを合わせれば1万人
以上が神の奇跡を体験したということである。 

パンを食べる、飲むは、霊に関するたとえである。 パンは、みことば、魚は水の中で生きる意
味での聖霊のたとえである。 クリスチャンは、神からいただくみことばと聖霊の力によって、
始めて生きることができるのである。 すべてが主のところにある。 だから、何でも主に聞き、
尋ねるのである。 主は今も求めてくる者、尋ねてくる者に与え、教えてくださる方である。

聖書でクリスチャンを羊にたとえているが、羊は本当に弱い動物である。 生まれつき我々は
惑わされやすい者である。 だからこそ絶えず主に聞き(=祈る)、尋ねるべきなのである。
 
主に聞いていく者=祈る者が強い。 朝、起きて祈って行く!←これが本来、羊のあるべき姿
である。 

★新約聖書 マルコによる福音書 1:35
  さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

★旧約聖書 イザヤ記 50:4
   神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私
   を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。

●我々は、一人一人、直接、主に尋ね、御心を悟っていくことが大切である。 しかし、成長
させてくださるのは神であるが、成長するための食物、パン(=みことば)の供給は、弟子たち
を通して与えられるというのが聖書が語っている神の方法である。 一人一人、聖書を読んで、
自分勝手に理解していけばいいというのは、聖書の方法とは違うようである。 

さて、皆がパンを食べた後、残りのものが集められたが、残ったかごは少なかった。 聖書に
たとえで記されているが、5千人の給食の時も、4千人の給食のときも、ノアのとき(箱舟に
入った者)も、ロトの時(滅ぼされた町ソドムから出された者)も、残った人は少なかった。

パンを食べることも一つのことだが、残りのものが集められることも一つのことである。 みこと
ばを聞くということは皆、同じことだ。 しかし、残りのものだけが集められるのである。 良い麦
だけが、集められて倉(=天の御国)に納められるのである。 ある意味、厳粛なことである。

さて、残るものはどのような者か? それは、主のみことばを正しく聞き、正しく受け取っていく
者、つまり、みことばを悟る者である。 イエス時代の律法学者やパリサイ人たちは、聖書のみ
ことばを知っていた。 しかし、彼らは間違った。 みことばを正しく受け取っていなかったがゆえ
に、悟れなかったのである。 律法学者やパリサイ人たちに扇動された群衆も間違った。 弟
子からパンを与えられて食べても、彼らは悟らなかった。 彼らは自分につごうの良い話しを好
んだ。(第Uテモテ4;3) パンを食べて、大事なことは残ることである!!! 

★新約聖書 第一コリント人への手紙 11:24〜26
     感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。 「これはあなたがたのための、わた
    しのからだです。 わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
    夕食の後、杯をも同じようにして言われました。 「この杯は、わたしの血による新しい契
    約です。 これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
    ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主
    の死を告げ知らせるのです。

●我々は聖書のことばを読むとき、また聖霊の働きを感じるとき、このことの裏に、イエス・キリ
ストの命がかかっていることを知るべきである。 だからこそ、パンを食べて、正しく悟って、残
る者になりたいものである。