めんどり聖書研究会/めんどり通信

めんどり通信/2005年10月16日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★旧約聖書 エレミヤ書 24:7
   また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民とな
   り、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである。

★新約聖書 第一コリント人への 8:6
   私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私
   たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられ
   るだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するので
   す。

●旧約聖書 出エジプト記32章に、エジプトに囚われていたイスラエル人が、モーセに率いら
れて、出エジプトした後、荒野で神の戒めを授けられるためにシナイ山に登って行ったモーセを
待っている間に、子牛崇拝に興じたことが記されている。 

彼らは、金の耳輪をはずして、アロンに渡し、彼は金の子牛を造った。 それを、エジプトから
自分たちを導き出してくれた神だと担ぎ上げ、飲み食いし、立っては、戯(たわむ)れたとある。 
その様子は、毎年、繰り広げられる祭りの様子に似ていると思うのは、思い過ごしであろう
か?

金の耳輪をはずすということは、神に従うことをやめ、信仰を捨てるということである。 また、
子牛を担ぎ上げるということは、もう一つには、器(人、人間の教え)を神より高く上げるというこ
とである。 子牛礼拝は、器崇拝であり、偶像崇拝、偶像礼拝である。 子牛礼拝をする者は
、真の神への信仰を捨てるというより、子牛に信仰を取られてしまうのである。

聖書の御言葉は、たとえとして多く書かれているが、牛とか羊は、反芻(はんすう)し、ひづめが
分かれているが、クリスチャンの型である。 子牛礼拝、子牛崇拝はどうも、教会関係者の中
に礼拝、崇拝の対象者が出てくることだと思われる。 実際、その兆候は現われている。

ローマ・カトリックでは、すでに子牛崇拝が早くから行なわれている。 カトリック信者は、神の言
われることば(聖書)よりローマ法皇の言う言葉に従っていき、そうして御言葉を消してしまって
いる。 また、マザーテレサの言うことばを聞いている。 あるインドの人がマザーテレサの像に
祈ったら、治った。 だからマザーテレサはカトリックで、福者(カトリックの中で言われている位
みたいなもの、聖人とか・・・)になったという。

また、プロテスタントでも、ビリーグラハム、ベニー・ヒンなど有名と言われる教会の指導者たち
の言う言葉を受け入れて、聖書のことばを捨てる多くのクリスチャンが多くなってきた。 

しかし、偶像礼拝をする者(=器崇拝する者)に対して、神の怒りが燃え上がる。 子牛礼拝を
したイスラエル人たちは、神に打たれた。 我々は、この神の警告を真剣に受け止めなければ
ならない。 クリスチャンと言えども、さばかれてしまう危険性があることを知っておかねばなら
ない。 一度、クリスチャンになったから、もう何をしても大丈夫という教えは、耳ざわりのいい
人間の教え、人間が作ったパンであることを知っておくべきである。 聖書は、イエス様に向
かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの
父のみこころを行なう者がはいる(マタイ 7:21 )
と言っている。

★旧約聖書 申命記 8:3
   それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らな
   かったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口か
   ら出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。

●人は崇拝するもののパン、つまりことば、教えを食べていると言える。 それがその人の行く
末を決定する要因となっているように思われる。 人がどのようなパンを食べるかは重要事項
となるであろう。 人を滅びに向かわすパンがあることを、聖書のあちらこちらで主は警告して
いる。 そして、滅ぼされないために、裁かれないために、ご自身のパンを食べるように命じて
おられる。 主はすべての人が救われてほしいと望んでおられる

★新約聖書 第一テモテへの手紙  2:4
   神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。

★新約聖書 第二ペテロの手紙 3:9
   主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるので
   はありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅
   びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

●キリストは、我々が食べることのできる方として、我々のうちに来てくださった。 パンを食べ
るということは、キリストを食べるということである。 つまり、キリストの教え、聖書の御言葉を
受け入れるということである。  食べるから御言葉に従うことができるのである。 そして、この
パンを食べる者は、永遠に生きると神が約束してくださっているのである。 我々は、神のこと
ばを優位にするのか、器(人間)のことばを優位とするのかを選択しなければならない。

★新約聖書 ヨハネによる福音書 6:51
   わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生
   きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」

●神の指で書かれた石の板の神の戒め(モーセの十戒)は、一番最初に書かれていたことば
は、偶像礼拝、偶像崇拝、器崇拝をするな、ということである。 下記の御言葉である。 我々
は、この御言葉を真剣に、心にとめるべきであろう。

★旧約聖書 出エジプト記 20:3
   あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。