めんどり聖書研究会/めんどり通信

めんどり通信/2005年1月23日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書 ルカによる福音書 15:31
   父は彼(兄)に言った。「おまえはいつも 私といっしょにいる。私のものは、全部おまえ
   ものだ。 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。 いなくなっていた
   のが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」

★新約聖書 使途行伝 4:12
   この方以外には、だれによっても救いはありません。 世界の中で この御名(イエス・キ
   リスト)のほかには、私たちが救われるべき名としては どのような名も、人間には与えら
   れていないからです。


新約聖書のルカによる福音書15章31節〜32節に『放蕩(ほうとう)息子』のことが記され
ている。 ざっと あらすじを書けば こういうことである。

ある人に息子が二人あった。 弟が父に「私に、財産の分け前をください。」と言うので、父は
財産を二人に分けてやった。 すると弟は、何もかもまとめて、さっさと家を出て遠い国へ旅立
ち、そこで放蕩三昧をして無一文になってしまった。 何もかも使い果たした後で、その国に大
ききんが起こり、食べるにも困り始めた。 それで、その国のある人のもとに身を寄せたが、豚
の世話の仕事しか与えられなかった。 彼は 豚の食べる餌(いなごまめ)でもいいから腹を満
たしたいほどだったが、誰ひとり彼に食べ物をくれる人はいなかった。 その時、彼は我に返り
、悔い改めて、父のところに帰ってきた。 弟のことを心配していた父は、家まではまだ遠かっ
たのに、弟を見つけて、受け入れた。 父は弟に、最良の着物を着せ、指輪をはめ、肥えた子
牛をほふって祝宴をした。 そこに畑から帰ってきた兄が、父の弟に対する扱いを見て怒り、
父がなだめても祝宴に入らなかった、という話しである。

一般的に教会では、ここの父は天の父なる神、兄はユダヤ人、弟は異邦人と教えている。
確かに、救いは 旧約時代のユダヤ人から、新約時代に入り、ユダヤ人がイエス・キリストを拒
否したことにより、異邦人へと及んだ。 (使途行伝18;6、ローマ人への手紙11;11)

聖書の御言葉は、時代が変わっても、その時代に、ひとりひとりに応じて、必要なことを語って
いる。 時代は変わっても、主は変わらず、すべてをご存知だからである。

★新訳聖書 ヘブル人への手紙 13;8
   イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。

●また聖書の御言葉は、御言葉の奥には、終末について語っているところが多い。 終末に関
して言えば、ここの兄は神の民(クリスチャン)、弟は今、未信者の人々であろう。 神から全く
離れて遠い国に旅立った弟は、自分の思い通りに生きていた間に、神から与えられていた健
康(体、心)も財産(賜物、良心など)も何もかもむなしく使い果たした。 人は、むなしく感じた
時に初めて、霊の飢え渇きを覚えるのかもしれない。 今、世の中はおかしくなった。 理屈
や知恵では考えられないような状況であると、誰もが認めている。 世はむなしい、と人が
感じる環境になってきたのだが、どれほどの人が本心に立ち返ることができようか。 しかし、
多くの人が心に飢えを感じるようになる日が来ると聖書は言っている。 なぜなら、結局、この
世には、彼の腹、心の飢えを満たすものを与えてくれる人は、誰もいないからだ。 我に立ち
返る、本心に返るとは、人が悔い改めて、父なる神のところに帰るということである。
神の方へと方向転換することである。 

神は、本来、人の心に永遠への思いを与えられている。(伝道の書3;11) 人は、「わたしは
アルファであり、オメガである」(黙示録22;13)と仰せられる神により造られたものであるか
ら、神のもとに立ち返ることは、本来、当然のことなのである。 しかし、罪が神と人の間を引
き裂いた。 世と世の誘惑が、人を惑わした。 それらの背後には、人を滅びへと引き連れて
いこうとする悪魔が存在するのだが、とかく、人は目で見えることしか信じられなくなってしま
っているから、見事にだまされる。 しかし聖書は言っている。 

★新約聖書 第二コリント 4;18
   私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは、一
   的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

いつかは終わり、永遠に入る魂、霊の行き先のことに、もっと気を配るべきなのだが、人は
目先のこと、短いこの地上でのことだけに囚われてしまっている。 人が認めようが、認め
まいが、行き先は天国か地獄である。 自分で行き先を決めることはできないのである。
永遠の行き先は、神の御手の中にある。

さて、神は本心に立ち返った者を見つけて下さる。 そして契約を結んで下さる。 指輪はその
ことを表す。 終末の神の定められた日には、今、未信者の多くの人々が神に立ち返り、くつ
をはき(=信仰の歩みと関係あり)、良い着物を着せてもらい(=義と関係あり)、クリスチャン
としての良い歩み、行ないが与えられると思われる。 肥えた子牛をほふってもらえる。(=
ほふられた子牛=罪があがなわれる) 

神から見たら、未信者は罪の中で死んでいる者である。(エペソ人への手紙 2;5) しかし、
この終末の日、「死んでいたのが生き返る」、神の前に「いなくなっていたのが見つかる」。
そして、祝宴が始まる。 御言葉が開かれ、真の聖霊のリバイバルの時は近づいているよう
に思われる。 

ただ、この祝宴にどうも、兄(今のクリスチャン)は、参加しないようである。 多くの未信者が
救われ、宴会の音楽や踊りの音を聞き、父なる神の弟に対する対応に納得がいかないよう
である。 「兄は怒って家(=教会を表す)に入ろうとしなかった」と記されている。 

今、クリスチャンだから、イエスを信じているから、私は大丈夫とは言えない。 弟が迎え入
れられたはずの教会に、納得せずに、むしろ自分から、入らない人々がいるということを聖
書は警告している。  また、未信者も全員が、本心に返って祝宴に入るとは思われない。 
いずれにしても、我々は、惑わしから守られ、正しく判断できるように求めていきたいものだ