めんどり聖書研究会/めんどり通信

めんどり通信/2005年1月16日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書 テトス 3:7
   それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、
   相続人となるのです。

★新約聖書 マルコによる福音書 8;34,35
   それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでも
   わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして わたしに
   ついて来なさい。」

●旧約・新訳聖書合わせて66巻の中には、ひとことで言えば「イエス・キリスト」と「救い(=永
遠の命)」について書かれている。 イエスが地上に現れたことは、全歴史の中心出来事であ
る。 旧約聖書は その為の舞台を作り、新訳聖書は、それを描写している。 また西暦は、
イエスが地上に来られたとされる年を第一年とした。(実際は4年ほど早く誕生された) 

聖書が書かれたのは、ただ人がイエス・キリストを信じ、理解し、知り、愛し、彼に従って、救い
(永遠の命)を得るためである。 聖書は この地上より明らかに次の世に焦点をあてている。
もし、今の世に焦点があり、今に世の生活こそ大事、すべてと言うなら、聖書が主の為に、命
を失うことなど奨励するはずはない。 また、今までの歴史の中で、イエス・キリストの為に殉教
した真のクリスチャンたちの死が、無駄になってしまう。 

聖書は、真のクリスチャンの歩みには、イエス・キリストにより救い(永遠のいのち)を得るという
、重要な目標があることを強調している。 

★新訳聖書 第一ペテロ 2;11
   愛する者たちよ。 あなたがたにお勧めします。 旅人であり、寄留者である あなたがた
   は、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。

★新訳聖書 ヘブル人への手紙 11;13,16
   これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。・・・・・地上では旅人、寄留者である
   ことを告白していたのです。
   事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。 それ
   ゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。 事実、神は彼らのために
   都を用意しておられました。

●今の世だけを考えるなら、死なないで長生きした方がよいし、この世で十字架を負って苦難
の道を歩むよりは、気楽に自己実現、人に好かれることを やっていた方が良いと思う。 しか
し、聖書は、現在の、この世の生き方だけを考えるのではなく、来る世、次の世を考えるのが、
真のクリスチャンであると言っている。 次の世こそ「本番」であり、重要であると神は、聖書の
各箇所で、直接的にまたは、物語(実際の)を通して それをたとえとして語っておられる。

今までの多くの主に従ってきた信仰者たちは、この地上では旅人として生きたが、それは、今
の世と、神によって導き入れられる次の世が、あまりにも違うからである。 比べようがないほ
どのものであることを、彼らは知っていたのである。 すなわち神を知り、主イエス・キリストを
知っていたのである。

★新訳聖書 マルコによる福音書 8;36,37
   人は、全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。 自分のいのちを買い
   戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。

●だから、本当は、キリストから離れて、現世、来世の生活を価値あるものとするものが、他に
はないのである。 この世で全世界を得たと言われる人に、ギリシャのアレクサンダー大王、
ローマ皇帝、中国の始皇帝などの名があげられるかもしれない。 まだまだ他にも、大ぜいい
ると思われる。 しかし、彼らがもし、全世界を手にしたとしても、次の世で永遠の命、(永遠
の)救いを得なければ何の得にもならないと言えるのではないだろうか。 

我々は、今の世の成功と、次の世における成功とをはっきり区別、比較しておかねばならな
い。 聖書は、今の世は、仮の世であり、主に従う人はこの地にあって、旅人、寄留者にすぎ
ないことを語っている。 我々は、みな、いつかは(体が)死ななければならない。 次に来る世
などと、ばかげたことだと、どうして笑い飛ばせるであろうか。 人が、この地上の人生を終える
時、その人の人生が走馬灯のように、その人に映し出されるというが、その時、誰一人、来世
のことを笑い飛ばすことはできないであろう。 しかし、もうその時では遅いのである。 

★旧約聖書 伝道者の書 7;29
   神は、人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ。

●本来、神は、人を正しい者に造られたはずである。 それなのに、多くの理屈を捜し求めて、
クリスチャンと名のつく人でも、キリストに近づこうとしない。 人は盲目で、耳しいであってよい
であろうか。 覚えておかなければならないことがある。 永遠の命は、キリストの手中にあると
いうことである。 我々がキリストを受け入れるか、拒否するか、キリストに従うか従わないか、
キリストの御心を行なうか行なわないかが、永遠の栄光か永遠の滅亡、また天国か地獄に定
められるのである。 

★新訳聖書 第二テモテ 3;7,8
   私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。 今からは、義の栄
   冠が私のために用意されているだけです。 かの日には、正しい審判者である主が、それ
   を私に授けてくださるのです。 私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれでも授
   けてくださるのです。

●ただ、素直に主イエス・キリストを受け入れ、この地上で走るべき道のりを走って義の栄冠
(永遠の命、救い)を獲得したいものである。