めんとり通信/2004年8月22日 主が復活された記念すべき日です! ハレルヤ

★新約聖書 ヘブル人への手紙 11章13〜16節 
   これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。 約束のものを手に入れることは
   ありませんでしたが、はるかに それを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者で
   あることを告白していたのです。 彼らは このように言うことによって、自分の故郷を求
   めていることを示しています。 もし出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る
   機会はあったでしょう。 しかし、事実、彼らは、からにすぐれた故郷、すなわち天の故
   郷にあこがれていたのです。 それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいま
   せんでした。 事実、神は彼らのために都を用意しておられました。
 

創世記23章にアブラハムの妻、サラが、今日のイスラエルのヘブロンで死に、墓に葬られ
たことが記されている。 アブラハムの人生は、クリスチャンの型である。 アブラハムは、こ
の地上では、旅人(寄留者)として歩んでいた。 

本来、クリスチャンもそうあるべきだ。 クリスチャンは、この世のものを用いる必要はある
が、用いすぎるべきではない。 それは、
世と世の欲は、滅び去るからである。(第一ヨハ
ネ2:17)    我々が、世にある欲のために滅びることを免れるためである。 (第二ペテロ1:4

聖書のあちこちで、世と深く関わることのないように警告されているが、今では、本来、聖で
あるべき公のキリスト教会が、積極的に世と関わろうとして、大きな運動(エキュメニカル運
動)を起こし、欧米では、その勢力が、キリスト教会を圧巻している。 日本でも、多くの教会
が、その波に飲まれつつある。 

この‘エキュメニカル’という語は、‘この世’という意味があり、要は、キリスト教会を、
この世化していく運動である。  人間には、良いことに見えても、神が見られると忌み嫌われ
るということがある。 
  創世記23章で、アブラハムは「(当時そこに住んでいた)ヘテ人に 
ていねいに おじぎをして」と記されている。 “おじぎをする”ということは、日本では当たり前
のことであるが、これは、どこの国にも あるものではない。 日本に残っている習慣(イスラ
エルの風習と日本古来の風習シリーズ参照)から、聖書の民は、日本と関係があるというこ
とがわかる。 

アブラハムは、サラの墓の為に、ヘテ人から、墓地を買いたいと申し出た。  すると、ヘテ人
は、ただであげると言う。   しかし、アブラハムは お金をもらってくれと言う。  ここで、押し
問答しているが、アブラハムが お金を払って墓を買うということには、霊的な意味がある。

夫アブラハム(=霊的解釈ではキリスト)が、妻サラ(=教会、クリスチャン)の為に、墓(地)
を買った。 これは、キリストが、唯一、我々をあがなって下さるという意味がある。 お金を
払うというのは、あがなうということの たとえである。 また、アブラハムは代価を払って、
マクペラに・る畑地と畑地にある ほら穴などを買い取った。 サラは マクペラのほら穴に
葬られた。    

この‘マクペラ’は、“二重”という意味があり、ここの ほら穴もキリストの十字架の死と
復活と関係がある。  クリスチャンも キリストの死に含まれているという意味があり、復活
(よみがえり)があるということである。    クリスチャンとは、買い戻された者、あがなわれ
た者である。サラ(=クリスチャン)は死に、マクペラのほら穴に葬られたが、よみがえりが
あるのである。

結局、人は、どのように死ぬか、死後の方が問題なのである。 


「人間には、一度死ぬことと死後に さばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27) 

他、聖書のあちこちに この世だけではない、死後(永遠)があることを示しているから
である。


 「人の心に永遠への思いを与えられた。」(伝道者の書3:11)

我々は、“永遠”を もっと々 深く悟らせて頂きたいものだ。 
キリストによって 死に、キリストによって よみがえる。 これが クリスチャンになった
最大の恵みなのである。