めんどり通信/2004年5月16日 日曜日 主が復活された記念すべき日曜日です。
あいにく雨ですが恵みの雨となりますように!

★旧約聖書 創世記 26:18 
   イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を再び掘った。


★新約聖書 ヨハネによる福音書 16:24 
   あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはあり ま せん。
   求めなさい。 そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたもの
   となるためです。 


●キリスト教の中心は、キリストである。 それを離れて他のことを―例えば、 キリストは善
なる人であり、偉大なる教師であったと思えばよいなどと―言うのは、とにかく、それだけで、
もうキリスト教ではないのである。 しかし、またイエスは、単に キリストの神性を、知的に
知るだけでは、神の国に入る道とはせられないだろう。 

マタイによる福音書7:21に「わたしに向かって『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはい
るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者がはいるので す。』」

と記されている。 真に神を知った者が、神の国(天の御国)へ入ることができるという確信を
持つことができる。 真に神を知った者は、神の御心を行いたいと願うように なり、神の喜ば
れる者になりたいというように、思考や感情の中に、神を基準とすることが始まるのである。 

神を知るとは、キリストを体験することである。 聖霊に触れる こ とである。 悪霊ではなく、
聖霊である。 そうでなければ、神、主イエスがいつまでたっても、その人のイメージにとど
まってしまい、知的に神を知っただけになってしまう。 神 の臨在は実際であり、主イエス・
キリストは、実際であることは、書物を読んで理解できるものではない。 聖霊に触れた者だ
けが、アーメン(真実そのとおりです)と言えるので ある。 その時から、その人の生き方、
心の方向が、主イエス・キリストに向くのである。 

的が神に向く、方向を神の方に向くことが、悔い改めである。 それが生き方が変わることで
ある。 また、その時から永遠ということを考えることが始まるであろう。  神は永遠であり、
永遠のいのちであられる。

『…この方(御子イエス・キリスト)こそ、 ま ことの神、永遠のいのちです。第一ヨハネ5:20』  

我々信じる者に、その永遠のいのちに預からせようとしておられる、神の愛を知り始めるのも、
聖霊に触れてからかもしれない。 聖書に「井戸を掘る」ことがでてくる。 井戸は水を得る為
に堀り、掘る者は、 土をかき出し々の作業をして水に到達し、触れることができる。 同じよ
うに、水にたと えられた聖霊に、我々が触れる為には、この神に祈ることが必要である。 

第一コリント 12 :3に 聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはで
きませ ん。」

と書かれている。 聖霊の働きを得るために、祈る。 聖霊に触れるために祈り続ける。 
そのとき、必ず、今まで神を知らなかった者が、聖霊に触れられ、真に神を知ることができる
ようになるのである。 聖書の福音書には、至るところに、信仰を持てとの イエスの訴えが
繰り返されている。 求めよ…求めよ…求めよと。 

『マタイ7:11してみる と、あなたがたは、悪い者であっても、自分の子供には良い物を与え
ることを知っているのです。 とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうし
て、求める者たち に良いものを下さらないことがありましょう。』

求めることを始めていきたいものだ。   ますます聖霊に触れられていきたいものだ。