めんどり通信/2004年11月14日。主が復活された記念すべき日曜日です!  ハレルヤ!

★新約聖書 第一テモテ6:12
   信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。

★新約聖書 第一テモテ2:6
   キリストは、すべての人の 贖い(あがない)の代価として ご自身をお与えになりました。


●旧約時代、ヤコブがエジプトで死のうとしていた時、子のヨセフに、エジプトではなく、先祖た
ちの墓に葬ってくれるよう言った。
(創世記47;29,30) そして、死後、ヤコブの希望通り、
イスラエルのヘブロンに葬られた。 ヤコブは何故、墓にこだわったのか。 そのことで 神は
何を言わんとしておられるのか。 それは、このことで、その人が死んだ後、どこへ行くのかと
いうことに関わっているということの象徴である。 死後、どこへ行くのか。 人は、後の世で、 
どう・るかが重要ポイントになる。

世界の三大宗教(啓示宗教)と言われるキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の他にも、世には
様々な宗教が氾濫している。 世の多くの宗教は、死んだら終わり、眠っている状態で何も
わからなくなる、空気のようになる等ということは肯定していない。 むしろ、死後には行くべき
ところがあるということで、いろいろな教えがあるようである。 生前の救い以上に、死後の救
い(どこに行くのか、どうであるか)に強調点を置いている宗教が多いように思われる。

十数年前、NHKで放映された、立花隆氏の臨死体験レポートでも、世界の統計をとってわか
ったことは、死後の霊魂の存続であった。 後の世どこへ行くか、ということは、聖書が教え
ていることの中の1つでもある。 聖書(神のことば)は はっきりと語っている。

★新約聖書 使途行伝4:12
    この方以外には、だれによっても救いはありません。 世界中でこの御名(主イエス・
    キリスト)のほかには 、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に
    与えられていないからです。


また聖書は、人はみな罪人である、すべての人は罪を犯したと言っている。
(ローマ3;23、
詩篇14;1〜3)
 罪から来る報酬は死です(ローマ6;23)とあるように、罪をゆるされていな
い罪人は、死(滅び)ななければならない。 しかし、神のひとり子イエス・キリストが、この地
上に来て下さり、我々の罪のために十字架で死んで下さったことにより処分して下さった。 
そして3日目に復活されて、今も生きておられ、主イエスに求めて来る人々を救っておられる。 

キリスト教会は、それを人々に伝え、十字架と復活のキリストを提示して、人々をキリストへと
導いて来たものだった。 しかし最近のキリスト教会の堕落ぶりは激しいものがある。 「復活
は嘘なんだ」「復活は当時の民衆の願望が作り上げたものだ」などと冒とく的なことを、聖書
学者や神学者、牧師、教師などが言い、そういう教会が優勢になってきている。 今や、神学
校はウソを教えるところとなり下がってしまった。 聖書は言う。

★新約聖書 第一コリント15:17
    そして、もしキリストが よみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あな
    たがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。

復活がないのはキリスト教とは言えない。 「復活はウソなんだ」となどと言う やからは、、ク
リスチャンではない。 それはキリスト教ではない。 別のものである。 しかし多くのクリスチャ
ンが、有名な牧師、教師、神学者などという地位、名誉、]判に惑わされ、だまされている。
聖書の翻訳も原語とニュアンスが違うところが多いので、我々は、聖書を読む時、ふまえてお
くべきことがある。 復活がポイントである!ということである。

我々、主の復活を信じ、真に主イエス・キリストを信じる者は、復活を得る、永遠のいのちを得
る。 聖書を読む限り、残念ながら、すべてのクリスチャンではないようだ。 神はあわれみ深
い、忍耐深い、愛のお方である。 しかし忍耐にも限りがあることを我々は知っておかねばな
らない。

★新約聖書 第二ペテロ3:9
    主は、ある人がおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのでは
    ・ りません。 かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりで
    も滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。


主は、愛のお方であられると同時に、義なるお方でもあられる。 ゆえに、主は救うて下さる
お方であられるが、さばきをもたらせる方でもあられる。 罪を平気で行なうなら、必ずさばき
が来る。 今、恐れをもつことが賢いと言えよう。 主イエス・キリストは、人が真にキリストに
頼って来ることを待っていてくださる。 まだ、今はあわれみの御手があるが、じきに閉じられ
る時が来る。 我々は心から、主を信じ、人(世)から見たクリスチャンではなく、神から見た
クリスチャンにしていただきたいものだ。 そして、さばきを過ぎ去らせて頂きたいものである。