めんどり聖書研究会

 
めんどり通信/2003年12月02日/人は、たとい全世界を手に入れても、まことの
いのちを損じたら、何の得がありましょう。



★新約聖書 マタイ16;26
    人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありま
     しょう。 そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

★旧約聖書 黙示録20;15
   いのちの書に名の記されていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

●新約聖書の中にイエス様によって、中風の者がいやされたり、悪霊にとりつかれていた
人が解放されたりしたことが記されている。そのとき、それを見ていた群衆は、神を賛美し
驚嘆したと記されている。
(マタイ9章)群衆は、いやしや解放を求めて、イエスのもとに集
まってきていた。しかし群衆は自分達の要求を求めるだけであって、神の御心を求め、神
に従う為にイエスの御もとに来たのではなかった。だから、イエスが御自身を求めよ、と言
われ始めると群衆はイエス様から去っていった。 

90年代あたりから、キリスト教会で、聖霊の第三の波と言われ、アメリカ、カナダ、アルゼ
ンチン等で、アナコンディアやベニーヒン等々が何千人、何万人もの人を集めての集会を
し、そこで、いやしや奇跡を行っているらしい?。数年前、ベニーヒンの2万人の集会に出
席したが、今、改めて当時、心の内に思ったことを思い出してみると、それらの集会では
魂の救い、真のキリスト(永遠のいのち)から焦点が著しくはずれていたと感じた。神はあ
われみ深いからとイエスが奇跡やいやしをあらわされた点だけを強調していた。 それは、
もはや真のキリスト教ではない。

 昔から、病気が直るから、お金が貯まるから、死後、成仏していい所へ行けるから、因
縁を解く為…等々、をうたい文句として流行った様々な宗教の集会と何等かわりがない。 
神の聖霊の働きではなく異なる霊の働きを感じた。 アメリカの集会では、歩けなかった
人が歩けるようになった?、病がいやされた?という人々を見たが、その集会が終わった
後、どれほどの人が、日々の生活の中で、主イエスに従い、キリスト御自身を求め、キリ
ストの本質、御心を知ろうと、聖書を読み、祈り尋ね求めただろうか。 

主イエス様は、この地上におられる時に、いやしや奇跡の集会を開かれなかった。 
イエス様は人々の魂を救うことを目的とされた。あわれみ深い方であるから、いやしや
解放を求めてきた者にはそのとおりにして下さったが、決して、いやしや奇跡を売りもの
にはなさらなかった。

神が私達に本当に与えたいものは、永遠の命、すなわち魂の救いである。この地上だ
けの“生、いのち”であるならばキリストにこだわらなくてもいいだろう。 しかし、私達人
間は、この地上だけでは終わらないのである。 永遠がある。 

パウロも「もし私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、
私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」と言っている。 重要なことは、日々
皆が元気で楽しく平安に過ごすということ以上に、神のいのちの書に名が記されること
ではないだろうか。 ご利益信仰的に主イエスを信じること以上に、主イエスに従う生き
方を望むことではないだろうか。それを求める者に、神はご利益以上の、永遠のいのち
を与えて下さるのである。


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