めんどり聖書研究会

 
めんどり通信/2003年9月21日


★新約聖書 マルコによる福音書6:56
    …さわった人々はみな、いやされた。


約聖書 ルカによる福音書18:10〜14箇所。 パリサイ人と取税人が宮で祈った。
パリサイ人は「神よ。 私は他の人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、
ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受け
るものはみな、その十分の一をささげております。」と祈った。 ところが取税人は遠く離
れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。
「神様、こんな罪人の
私をあわれんで下さい。」

 パリサイ人は十戒も奉納物もよくわきまえていた。 取税人は当時、ローマの税金徴収
者であり、多くは搾取を常習としたので、一般の人々から侮辱されていた。 しかし、神は
人の心を見られる。 パリサイ人には神への心からの叫びがなかった。 取税人には「主
よ。私をあわれんで下さい。」と自分を低くしての心からの叫びがあった。 主は言われた。


「あなたがたに言うが、この人(取税人)が、義と認められて家に帰りました。 パリサイ人
ではありません。 なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は
高くされるからです。」 

イエスは、取税人を神が義と認めた人物として指名した。 何によって義とみなされるの
だろうか。 神に触れることによってではないだろうか。 我々、人が、本当に必要として
いるものは、救い主ご自身を見ることであり、神に出会うことであり、神と交わりをもつこ
とである。 取税人は、己という者が、いかに愚かな者、罪人であるかを知っていたのだ。 
いや、神によって知らされていたのだ。 そこにも、やはり、取税人の心の底には、現状
で満足できない、変わりたい、心が清められたい、つまり、救われたいという、神への内
からの叫びがあったのではないだろうか。 そういう者に神は触れて下さる。 


めんどり聖書研究会