めんどり聖書研究会

 
めんどり通信/2003年8月11日


★新約聖書 ヨハネの黙示録3:20
    見よ。わたしは、戸を外に立ってたたく。 だれでも、わたしの声を聞いて戸をあける
    なら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事
    をする。


●真のキリスト者は、感情ではなく、意志で生きる。 神は人間の意志の選択決定を(感情
が、いかに相反していても)その人自体の選択決定と見られる。 また、この法則を応用す
れば、感情は必ず、意志に従ってくるのである。 

主は戸を開けよ、と仰せられた。 戸の掛け金は内側にある。 戸を開けなければならない
のは、私たちの手であり、キリストを呼ばなければならないのは、私たちの声である。 
人の意志の前には、たとい栄光の主であっても、その戸を破ることは許されていない。 
当然、サタンもである。 主を受け入れ、主の御心に従っていくということは、自分を無にし
て何も考えないという受け身となることではない。 私たちの、はっきりとした意志表示が
必要なのである。 私たちが、神の御心に従うと決めた後、私たちの求めに応じて、御心
(御言葉)を行う力も性質も恵みも、主が与えて下さる。 自由意志でもって、自己を心の王
座から退かせ、キリストの意志が、行為を決定することができるようになるために、聖書を
読み、聖霊によって悟らせて頂き、聖霊に導かれて祈り、主にあって交わりをするのである。 

私たちが神の前に責任を持たなければならないのは、この自由意志の向け方如何で
ある。=(神の意志に従うと決めるか、あるいは自我意志に固執するか)  私の今までの
経験からすると、自分自身を神の御手にゆだね、主イエス・キリストへの服従を願い、
意志をそのように決定したとき(決定したことと実際の間には若干の食い違いはあったとし
ても、主は私の意志決定を見られた)、 神、主イエスのことが知らされてきたと思う。  

知るというのは、神を体験することである。 主に触れられることである。 神の臨在は実際
であり、主イエス・キリストは実在、実際であることは、頭で理解できるものではない。 かつ
て多くのキリシタンが、命にかえても主に従い続けることができたのは、彼らは、主を知って
いたからだと思う。 主に触れられていたからだと思う。 殉教した者たちの中には、理解す
ることがむずかしい幼子もいたのである。 幼子でも主を知っていたのである。 

イエスは言われた。
 「まことに、あなたがたに告げます。 あなたがたも悔い改めて子ども
たちのようにならない限り、決して天の御国には入れません。」
 
ますます主に対して、素直になり、主を知りたいものだ。


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