めんどり聖書研究会

 
めんどり通信/2003年7月1日



★新約聖書 ローマ3:1〜20   …10節〜12節…
   義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべて
   の人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。

●最近のニュースで動物たちが、人間にひどい目にあわされている画像をよく見る。 いかな
る動物も人間のような悪を行うことはないのではないか。 いかなる猛獣も人間ほど残虐では
ないのではないか。 言葉を語ることは、人間に特権として与えられているが、人間ほど汚い
言葉を言う動物はいない。 平和なときは、これらのことがらが、表面上隠されているが(隠さ
れていることに、以外と本人が気付いていない)、戦争のときになると、すべてが表されてくる。 

戦争も武器をとるものでなくても、その人にとって、気に入らない、納得がいかない、自分の
意見が通らないときは、その人の心は表面上は、どうであれ、その時が、戦争なのである。 
聖書は例外なく すべての人間に判決を下している。 いかなる人間にも根強い自我と 消す
ことの出来ない、抑えることのできない高慢が宿っているのではないだろうか。 

たとえば
マタイ5:1〜7:27,ルカ6:20〜49に記されている山上の垂訓(さんじょうのすいくん)
と呼ばれている主の御言葉には、絶対的な愛、誠実、正直な心、清さ、自分を無にすること
などが要求されている。 これらの御言葉を行おうとする者は、自分の力、生まれ持った性
質では、守り行うことが、できないばかりか、自分自身のことを知るようになるだろう。 

罪は聖霊によらなければ 本当の意味で知ることができない。 罪を罪として知るということ
は、神が見て罪をどのように見ておられるかを知るということである。 また、神のご慈愛に
よるから罪を罪として知ることができるのである。 そして、罪を罪と知った者が 悔い改める
ことができるのである。 

本来、自分は滅び行く者であること、債務を負っている者であることが、わかった者は幸い
である。 御言葉によって自分の生活を見ることができ、自分が聖なる神の裁きのもとにあ
り「滅びる者はわざわいなるかな」ということを正しく知ることができた者が 神の豊かな恵
みを体験することができるのである。



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