めんどり聖書研究会

 
めんどり通信/2003年5月12日 月曜日 聖書の学び(1)



今から約二千年前、エルサレムに住む旧約聖書を読み、神を信じている人達、また神の民
の指導者は、毎週安息日ごとに集会に集い、預言者にきき、正しい神のことばを朗読しなが
ら、しかし、その聖書が語っておられる、まさにその人―キリストを受け入れることができなか
った。
(使途13:26,27)   

 このことは、今の時代の私たちにも語りかけがある。 なぜなら、私達も多くのクリスチャン
が、毎週、公のキリスト教会の集会に集い、説教者を通して、神のことばを受けているから
である。 しかし、果たして、どれほどの人が、神に喜ばれているだろうか。聖書のみことば
の奥にある神の御心を、どれほどのクリスチャンが悟っているだろうか。   

当時、神の民の指導者に与えられた神の御言葉は純粋なものだったが、彼等はそれに多く
の自分達の言い伝えを付け加え、それにより、神の御言葉を無効にしたりしていたのだ。

神の教え(御心)は変形してしまった。  キリストは神の子として、見えない神御自身を代表
している。 重要なことは、神のみことばを正しく主にあって理解できるかどうかである。 それ
によって天地程も異なる結果の違いとなる。

 私達が主の語られた御言葉を正しく受けられるかどうかは、私達の歩みを決定する。 
御言葉は正しくキリストについて預言していたが、当時の彼等はそれを読み取ることができ
なかった。 当時の彼等を学ぶ時、ひとつ教えられることは多くの人の理解していることが
必ずしも正しいとは限らないということである。 これは聖書の原則かもしれない。

旧約時代にも主の預言者は少なく、偽りの預言者の数が圧倒的に多かった。 偽りの預言
者、教師の言葉は人々の心に受け入れられやすいから多い。 どんなメッセージでも本でも
主によって悟らせていただくことが大切。聖書は私たちの常識、先入観を裏切ることがよく
ある。

聖書には私達の歩み、将来に関する全てのことが記されている。 しかし、それを正しく読み
取ることは主に真剣に求めて初めて与えられることである。 私は間違った時代があった(牧
師という人だけに影響されて)が、今やそれさえ、益にして下さった。 しかし、それでも今後、
私が話すことばやメッセージは、主に祈って受けてほしい。


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