めんどり聖書研究会

 
めんどり通信 (10)(11)(12)/ 2002年3月6日




もし、すばらしいと思われる人に出会ったとき、私がその人に見習うべきことは、その人が、
、主なる神に対して、どういう心の態度を持って、のぞんでいるかを見習っている。 その人が
自分よりも、すぐれた人だと尊敬はしたとしても、その人を基準に置いたりはしない。 神以上
に、主イエス以上にすぐれた人は、決していない。 だから、主なる神を基準にしている。 
人という者は、案外、自分という者を知っていないのではないかと思う。 自分は大丈夫、悪
いこと(神から見られて)を思ってはいないと言ったからとて、次の瞬間、何を思っていること
やら。

神が憎まれる罪や咎といったたぐいは、聖霊によって示していただかなければ、気づかない
ものである。 だから、私は自分を信頼するのではなく、主を信頼するのである。 私たちが、
人を見るのではなく、その人の内におられるキリストを見るなら、もう人ではなく、主をほめざ
るをえなくなるだろう。 また、まだ救われていない人と接するときにも、神はすべての者が
悔い改めて救われ、真理を知るに至ることを望まれている、という神の御心を思って接する
なら、私たちの接し方が、変わってくるのではないかと思う。

絶えず、そのような見方ができるようにと願い、祈っているが、ああ、今朝も、つい「こらっ、
学校の行く用意をちゃんと前の日にしておきなさい。」と声が荒立ってしまった。 悔い改
めの祈りと変えられるようにとの祈りをした。 同じようなことを繰り返しているようだが、
悔い改めるごとに祈り求めるごとに主はこんな私の祈りに答えてくださり、着実に変えて
下さっている。 皆さんはどうですか? ハレルヤ




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